こんにちは、メンズカウンセラーの中村カズノリです。
前回記事
(※)では、僕自身のモラハラに苦しんだ過去についてお話ししました。僕の回復のきっかけになったのが、「セカンドオピニオン」を受けるために訪れた、ある場所でした。
「後ろめたさ」を抱えたままでは回復が難しい
ことDVやモラハラにおいては、加害者だけでなく被害者も、世間から後ろ指を差されがちです。「こうなったのは自己責任」と自分で思い詰めてしまったりもします。 そうした一種の「後ろめたさ」を抱えながら回復していくことは、大きな困難を伴います。
僕が「セカンドオピニオン」として繋がった“居場所”。それはDVの加害者も被害者も、男性も女性も分け隔てなく自由に集まり、体験を語り合う場でした。一見「危険なのではないか」と思えるかもしれませんが、世間の目から守られ、それぞれの当事者が自分自身に向き合っていくことを重視した場所でした。
「加害をするなんて人としておかしい」「そういう奴は一生治らない」、そうした世間の偏見・レッテル貼りから解放された状況で話をすることで、僕は伴走者に助けられながら回復に向かっていけたのだと思います。今度は自分がそんな伴走者になりたいと願っています。
「もし殴られたらすぐさま殴り返す」という今の妻の言葉に安心した
そうして数年、いろいろありつつも少しずつ回復した僕は、今の妻と付き合い始め、お互いに結婚し家族を作る選択をします。
今の妻には、過去のいきさつは付き合う前に伝えていました。再婚の決め手は「いざとなったら1年くらいなら養えますよ」という彼女のセリフでしたが、「もし殴られたらすぐさま殴り返して実家帰るので、落ち着いたら連絡くださいね」という、これまた男前というか、たくましいコメントも、僕の中では大きかった気がします。
何と言えばいいか、それで不思議と安心したんですよね。不安だらけだった人生で初めて「安心」を感じられたのだと思います。
モラハラは寛解しても、再発させない努力は必須
実のところ、「モラハラ加害者」の自称に「元」を付けるべきかどうかも悩みどころです。薬物依存症などとは違って、「毎日やりたくてたまらない」というものではないのですが、疲れたときやストレスが溜まったとき、ふいっと暴れ出しそうになって自分でも持て余してしまう部分が、心の中には確かに残っています。
「子どもが言うことを聞かず、泣きながら叩いたり蹴ったりした」「小さな不注意や失敗を妻からきつい言い方で咎められた」など、きっかけは様々ですが、根幹には常に「自分の問題」があります。「攻撃された」と感じたときに自動的に作動してしまう、防衛プログラムのバグのようなものです。
生涯付き合っていく気持ちで
何度も修正パッチを当て、アップデートを繰り返しても、困ったことに完全に不具合を取り除くことはできていません。誤作動にいち早く気づいてブレーキをかけられるようになったつもりではいますが、生涯これと付き合っていかなくては、という体感があります。
このような経験から、カウンセラーとして相談者と関わる際も「抱えている問題を魔法のようにパパッと消すことはできない」という前提でいます。ですから、「こういう方法もありますよ」と選択肢を示すことはできても、こうしなさいと指示はしませんし、できません。
こじれてしまった人間関係について、どちらが悪いとジャッジすることもありません。目指しているのは、クライアントの中にある「答え」を探す手伝いをすることが僕の役目です。
問題を切り分けて考えられない人が実はすごく多い
個人的にポイントになると考えているのは、「問題の切り分け」です。夫婦や家族間の悩みでは特に、どこまでが相手の問題でどこまでが自分の問題か、上手く線引きできずにお困りの方が少なくないんですよね。
DVやモラハラの問題は「連鎖」が起きやすいということを、前回お話しました。例えば、配偶者から暴力を受けている人が子どもに暴力を振るってしまう、上司からパワハラを受けている人が家族にモラハラをしてしまう、というようなパターンです。
そうした場合、被害者も加害者も、問題の根っこがどこにあるのかを見誤ってしまうことがままあります。加害者は「相手が間違ったことをして自分を怒らせるのが悪い」と思い込みがちだし、被害者ですら、ともすると「自分が悪いのでは」と考えてしまいがちです。「連鎖」の名の通り、鎖を分割してみないとわかりません。
同じことで悩んでいても、当事者によって「問題の根っこ」は違う
「問題の根っこ」に対する認識もその当事者により異なります。パワハラ上司からの連鎖でモラハラを受けていた妻にとっては、「転職するなり異動願いを出すなりして、夫がその上司と縁を切る」のが解決法ですが、当の夫は「パワハラを受けたとはいえ、妻にモラハラをしてしまったのは自分の問題。上司との関係は別として、自分と向き合っていく必要がある」と考えているかもしれません。その部分を「それはあなたの問題なんですね」と納得し、「じゃあ自分で答えを出せるまで待ちますね」と考える。それが「切り分け」です。
逆に、自分の問題を「あなたが何とかするべき」と迫ったり、相手の問題なのに「パートナーとして円満解決に導かねば」と背負い込んだりするのは良くありません。例えて言うなら、「忘れ物を親が用意しなかったせいにする子ども」や「子どもの成績の良し悪しを自分の評価と結びつけて一喜一憂する親」のようなものです。
この「切り分け」については、正しいやり方というより「家族といえども他人であり、自分とは異なる存在である」とわきまえることが大事です。
「夫婦は他人」と割り切ることで初めて互いを尊重できる
結婚した途端「夫婦だから何もかもわかってくれて、一緒にどうにかしてくれて当たり前」というような幻想を抱いてしまう人もいます。これは、「夫婦は運命共同体」として、同一視を美化してきた古い価値観の影響も大きいと思います。
そのあたりがこんがらがったままだと、過度な自責や他責につながって、解決からは遠ざかってしまいます。「夫婦は他人」。冷たいように聞こえますが、お互いにその認識を共有することで尊重し合うことができるんです。思い出してみてください、「血の繋がった親だって、自分のことをちっともわかってくれないんだなぁ」と諦めとともに実感した遠い日のことを。あれと同じです。
忘れてはいけないのは、「自分と相手の価値観は、実は驚くほど違う」ということ。もちろん合致する部分もありますが、違うところのほうが圧倒的に多いものです。それをぜひ頭に入れておいてください。
文/中村カズノリ イラスト/竹田匡志