「ぼく」を選ぶ理由は一種類じゃない

── 明治期の女学生とは事情は違いますが、今も自分を「ぼく」と呼ぶ女の子は一定数います。彼女たちはなぜ「ぼく」を選ぶのでしょうか。

 

中村さん:

その理由は一人ずつに聞いていくしかないくらいに難しいですね。むしろ、「こうである」とひとつの結論を出すのは危険だと思っています。

 

友だちが「ぼく」を使っているから自分も使いたくなったという子もいれば、無意識のうちに「女子であることを強調したくない」と感じて使う子もいるでしょう。

 

「ぼく」に限らず、「うち」「おれ」と自分を呼ぶ女の子も見かけますよね。私は娘と息子がいますが、娘は小学生のときに自分のことを「うち」と、息子はアニメキャラの影響で自分を「わて」とそれぞれに呼んでいました。当時は息子の友達との会話が「わてはいいけど、あんさんは?」という具合で(笑)。

 

他にも、小学3年生のときの一人称が「わし」だったという知人の娘さんの話も聞いたことがあります。

 

私は子どもがどういう一人称を使うかについては、一度も注意したことはありません。

 

娘さんが「ぼく」呼びすることを心配する親御さんもいるかもしれませんが、むしろ「子どもってすごくクリエイティブに自分を表現しているんだな」と捉えてみてはどうでしょう。

一人称はもっと自由でいいかもしれない

── プライベートでは好きな一人称を選べても、学校では性別で区分けされる現状をどう思われますか。

 

中村さん: 

年代が上の先生方ほど、「一人称は性別で区分けするのが常識」と思い込んでいる傾向はあるかもしれません。学校は「正しい答え」を教える場所ですから、現状では仕方ない部分もありますね。

 

ただ、子どもたちは賢いですから、授業中は「わたし」、友達と話すときは「うち」というように、ごく自然に一人称を使い分けていきますよね。それが良いか悪いかはさておき、子どもはそうやって人間関係の中で工夫をしながら、たくさんのことを学んでいきます。

 

作家の平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」という考え方があります。家族といるときの自分、学校の自分、友だちといるときの自分と、いろんな自分があっていいし、そのすべてが「本当の自分」だという考え方なのですが、私もその思想に共感します。

 

一人称も同じで、そのときどきで使い分けていい。「ぼく」を使う自分もいれば、「わたし」を使う自分もいる。そんな風に自由に使い分けられる社会がいいのではないでしょうか。

 

 

冒頭で紹介した筆者の娘は、小学2年生の今も自分を「ぼく」と呼んでいます。友だちはそのことを自然に受け止めているようですが、初対面の子から「女の子なのに『ぼく』なんて変!」と言われることも。そのたびに「いいじゃん。ぼくはぼくって呼ぶんだよ」とタフに返しているようです。彼女の一人称がこの先どう変わっていくのか、親としてこのまま見守っていくつもりです。

 

後編では、男の子の「ぼく/おれ」問題に注目。男の子の成長過程における一人称の選択について、引き続き中村先生にお話を伺います。

 

Profile:中村桃子(なかむら・ももこ)さん

関東学院大学経営学部経営学科教授。専門領域はことばとジェンダー。『翻訳がつくる日本語 ヒロインは女ことばを話し続ける』(白澤社)、『女ことばと日本語』 (岩波新書)、『「女ことば」はつくられる』(ひつじ書房、第27回山川菊栄賞受賞)など著書多数。最新の著書『「自分らしさ」と日本語』(ちくまプリマー新書)は2021年5月刊行予定。

取材・文/阿部 花恵