直井亜紀さん

直井さんが助産院を起ち上げたのは38歳の時。以来、地域のママたちからは“育児相談の駆け込み寺”として絶大な信頼を受ける存在です。「いのちの授業」が話題になったり、講演や執筆のオファーも多く、多忙な日々をおくる直井さんですが、実は、キャリアの道のりは決して平たんなものではなかったといいます。

 

第2回「

中学男子の目に涙…『いのちの授業』が思春期の子どもの心を動か

す」に続き、最終回となる今回は、転勤族の妻としてキャリアに葛藤し、孤独な育児に思い悩んだ日々とその経験を乗り越え、逆境をチャンスに変えた直井さんのこれまでの道のりに迫ります。

娘の衝撃的なひと言が「いのちの授業」のきっかけに

── 直井さんは10年前に「いのちの授業」を始められたそうですが、きっかけは何だったのですか?

 

直井さん:

今でも忘れられない出来事があります。ある日、中学校になったばかりの娘が、「ねえ、ママ。私ね、今日すっごく最低な言葉を聞いたんだよ」と言ってきたんです。その言葉というのは、結局セックスだったのですが、娘は、「気持ち悪くて、汚くて、最低のことだと先輩から教わった」と。子どもというのは、こうして性の情報を得てくるんだとショックを受けました。このままだと偏った性の情報を覚えてしまう。これは自分の子どもだけでなく、地域の子どもたちにも正しく伝えていかなければダメだと、危機感を抱いたんですね。

 

そこから性教育を模索する旅が始まりました。大量の文献を読み漁り、いろいろと勉強をしたけれど、なかなか自分の納得するものが見つからない。試行錯誤の末、ようやく「これだ!」と思えるものができた段階で、ある小学校へ行って相談してみたんです。

直井亜紀さん

── おそらく学校としても前例のないアプローチだったと思います。反応はいかがでしたか?

 

直井さん:

非常に厳しいものでしたね。「保護者のクレームが出たときに対応できないことはしたくない」とか「あなたのやろうとしていることは聞かなくてもわかります」と、取りつく島もない。先生たちは教育のプロで、いろんな受け入れ難い事情もあるのは理解します。でも、まったく関心を持ってもらえなかったことが悔しくて…歯を食いしばっていたら、実際に奥歯が欠けてしまったこともありました。

 

── 門前払いに近い状態だったのですね…。なにが突破口になったのでしょうか。

 

直井さん:

まさに“人との縁”が導いてくれました。常日ごろから“こういうことを子どもたちに伝えたい!”と熱い思いを発信していたのですが、その思いが市議会議員さんの耳に入り、玉突き的に教育長さんへも届きました。まわりの人に恵まれているなあと感謝した出来事です。

「転勤族はキャリアを捨てるしかない」とあきらめたことも

── 2009年に助産院を起ち上げるまで、夫の転勤で国内外を転々とされていたそうですね。転勤族の妻がキャリアを積むのは、とても難しいと聞きます。どのような道のりを歩んでこられたのでしょうか。

 

直井さん:

おっしゃる通り、イバラの道のりでした。よく“運がよかったからできたのでは”とか“家族の理解があっていいですね”と言われることがあるのですが、実はまったく逆。どん底を経験しています。

 

助産師の国家資格を取得してから病院で働き始めたのですが、夫の転勤に帯同するためには退職を選ぶしかありませんでした。夫の転勤に帯同するために20代でいったん退職。その後も短いスパンで転勤が続き、転勤先でも夫は長期出張に行ってしまう生活でした。頼る人がいない育児では、自分のキャリアを考える余裕はありませんでしたね。私が思い描いていたキャリアの未来図は、病院での管理職になることや途上国で働くことでした。でも、家族を守るためには夢をあきらめるしかなかった。

 

私は、結婚したら夫婦は共に働いて生きていくものだと思っていたのですが、夫にとってはそうではなかった。“妻は家庭に入って夫をサポートするもの”というイメージがあったようです。結婚前にちゃんと話し合ったはずなのに、育った環境による価値観の刷り込みが強かったようですね。

 

結婚した25年前当初は、まだ社会全体にも「出産したら女性は育児に専念」というイメージが残っていましたね。年配の女性から「仕事がしたいなんて、ご主人のしつけができてないのね」と衝撃的な言葉をかけられたこともあるほどです。そんな状況のなかで、何とか単発でできる助産師の仕事を見つけては細々と働き続けていました。
直井亜紀さん

海外でのワンオペ育児で惨めな思い…そんな経験もすべて糧に

── キャリアに対する葛藤や、知らない土地での孤独なワンオペ…。さぞかし大変だったと想像します。海外転勤では、オランダで暮らした経験もあるそうですね。オランダは、男女平等が進んだ国として知られていますが、周りの子育て状況はいかがでしたが?

 

直井さん:

私がオランダにいたのは20年近く前のことになりますが、すでに日本とはまるでカルチャーが違っていて、びっくりしましたね。オランダは、人権や男女平等の意識が小さなころから徹底されていて、保育園の送り迎えをママが1人でやっているのは私だけ。1歳児をおんぶしながら送迎していたら、近所の人に「クレイジーファミリー」と驚かれて、惨めな気持ちになったこともあります。

 

── 子育ての環境がまったく違うのですね。国内の転勤先では単発で仕事を続けていたとのことですが、どんなことをされていたのでしょうか。

 

直井さん:

保健センターの新生児訪問や母乳育児の相談などを細々とやっていました。2人の小さな子どもを抱え、いつまた転勤するかもわからない状態でしたから、正直いって“それしかできなかった”というのが本音です。でも、それなら逆に、私は“その道のプロになってやろう!”と思ったんです。

 

そして、関東への転勤が決まったタイミングで、「私にはやりたいことがある」と夫へ宣言し、そこからは一心不乱に突き進んできました。今、私がやっている助産院の活動は、自分が育児中に「こんな人にいてほしかった」「こんな場所があったらよかったな」を形にしたもの。孤独な育児でさんざん辛い思いを経験したからこそ、同じ思いに苦しむママをなくしたいという気持ちで日々取り組んでいます。

直井亜紀さん

── キャリアにとって不利な状況を覆したのですね。まさに逆転の発想!

 

直井さん:

ですから今、キャリアに悩むママたちには、“私にはできない”とか“どうせ今さら無理”とあきらめてほしくないんです。どんな状況でも、自分のやりたいことをみつけることができれば、いくらだってリベンジができると伝えたいですね。

 

── 今後、取り組んでみたいことはありますか?

 

直井さん:

赤ちゃんを育てているママが笑顔になれることを模索し続けたいです。そして、与えられたお役目を粛々と丁寧に続けていきたいと思っています。いくら口先できれいごとを言ったって、心がこもっていなければ意味がありません。ですから、関わる人数がどれだけ増えても慣れてしまわないように心がけています。誠意をもって向き合い続けていきたいですね。

 

Profile 直井亜紀さん

直井亜紀さん
一般社団法人べビケア推進協会代表理事。さら助産院院長。聖母女子短期大学助産学専攻科(現上智大学総合人間科学部)卒業。大学病院や総合病院に勤務した後、夫の転勤で各地を転々とした経験をもつ。2009年5月、さら助産院を開業。地域の新生児訪問などを含め、約5万人の育児相談に関わっている。平成29年には母子保健奨励賞、令和元年には内閣府特命担当大臣表彰を受賞。主な活動は、母乳育児相談、ベビマクラス、講演活動など。著書に「お母さんのための性教育入門」(実務教育出版)。

取材・文/西尾英子 撮影/河内 彩