中学生のトニーニョくん(15歳)と3人で暮らす、漫画家の小栗左多里さんと外国人の夫・トニーさん。

 

夫婦で子育てをしていくなかで「異文化で育った者同士はどうやったら折り合えるのか?」と試行錯誤した経験から感じたことや自分の幼少期の体験を、それぞれに語ります。

 

前回記事「息子が12歳で初ベビーシッターに!一番の収穫は意外にも…」では、左多里さんがトニーニョくんの初アルバイトについて語ってくれました。今回はアメリカで育った夫のトニーさんのアルバイト経験について。なんと8歳からアルバイトを始めたというトニーさんは、若くして予想外の社会経験をすることになったといいます。日本との違いが浮き彫りになる、実体験を述懐してくれました。

週7日朝4時起きの新聞配達で8歳が学んだ「人生は辛い」の意味

自転車に乗れるようになったのは7歳。日本の幼稚園児が足で蹴って走る、ペダルのないランニングバイクを巧みに操っているのを見ていると、自分は7歳まで何を待っていたのか…と思う。

 

でも僕は、自転車と接したその次の年から、それを使ってお金を稼ぎだした。そのことは今でもちょっと誇りに思っている。8歳にして、1つ目の“バイト”は、新聞配達だ。小3から高2くらいまで、毎日近所の人に『ザ・ニュース』を配達していた。

 

登校前のことだから、週7日、朝4時起き。新聞社のトラックがわが家の前に降ろしてくれた朝刊を拾って、新聞を1枚1枚、3つ折りにしてバスケットに入れる。これを300軒ほどの玄関に届けるために自転車で何キロもまわっていた。洪水や大雪でも1日も休まずに長年続けられたのは、ちょっとえらかったかな。

 

一番のチャレンジは早起きではなく、集金だ。週1回、放課後にやっていたが、留守のふりをして、いつまで待っても代金を払ってくれない購読者が何人かいた。この収入のロスは、なんと配達する少年(つまり僕)の取り分から引かれてしまっていたので、若くして社会勉強になった。一つ、ときおり「人生は辛い」。一つ、「掛け算はそう難しくない」。購読料は当時一週間75セントだったので、滞納額を計算するのが得意になったのだ。たとえば、75セント×4週間は…「3ドル、お願いします。いえ、もう待てません!」

 

今と同じく児童労働に対する規制があったが、新聞配達は許されていた。もう一つの例外は、日曜日に行われるミサ・礼拝での手伝い。基本的にはボランティアではあるが、結婚式のときは何千円のチップがもらえた。子どもの僕はこの仕事もやっていたので、今思うとかなり忙しかった。そして貯金もそれなりに膨らむようになっていた。

アルバイトの経験が将来の職業に繋がるかも

はじめてのバイトらしいバイトは、16歳のとき。アイススケート場、スーパー、肉屋、雑貨屋など、いろいろあったが、一番思い出深いのは映画館での仕事だ。お客さんのチケットを切り、彼らを席まで案内し、「けっしてポップコーンやジュースをこぼすなよ」と注意するのが仕事の内容。次の朝、いたるところにこぼされていたポップコーンとジュースを掃除することもあった。最新のトレンディー映画を誰よりも早く見れるのがこのバイトの最大のチャームポイント。ただ、働きながらではもちろん映画をゆっくり鑑賞できたわけではなく、ここで5分、あとで10分という感覚で、なんとなく内容を吸収することに。ジャーナリストとしてデビューした後、雑誌などで映画評論もするようになったのは、このバイトのおかげかもしれない。

 

さて、日本と海外とではアルバイトの捉え方が少し違うのか。できることなら、小さいうちから働き、自らお金を稼ぐチャンスがあったほうがいい。こういう考え方は各地の人は持っていると思う。ただ、チャンスがあるかどうか、というのが問題。日本はたぶん、猛烈に忙しくなる受験勉強の期間が関係して、小・中学生に働く機会がそうまわってこないのではないだろうか。

 

ちなみに最近は、アメリカやEUで盛んなアルバイトが日本でも流行ってきている。その1つが「ソーシャルメディアマネージャー」だ。会社の社会戦略に沿って、SNSに宣伝となる投稿をするのだけれど、要はクライアントのために、ツイッターやインスタグラム、Facebookなどでバズることを狙って、ひたすら投稿する任務らしい。僕が海外で経験したものより洗練され、家でできるというのも魅力的。ただ…自転車を漕ぐことも、映画館まで足を運ぶこともない。さらにティーンエイジャーの運動不足につながるかも…。

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文/トニー・ラズロ イラスト/小栗左多里