「目の前に生後間もない赤ちゃんがいる。それは同じ病院のどこかに、自分のお腹を痛めて産んだわが子を置いてひとりで帰る生みの母がいるということです」。10年に及ぶ不妊治療の末、養子縁組で息子を迎えた池田麻里奈さん。息子を迎えた当日、よろこびよりも脳裏をよぎったのは複雑な感情でした。
「この命を繋ぐ」その想いがすべてだった

── 10年に渡る不妊治療を経て、特別養子縁組で生後間もない息子さんを迎えた池田麻里奈さん。あっせん団体に登録し、研修や審査を受け、待ち望んだ赤ちゃんと対面した時、最初に湧き上がってきたのはどんな感情だったのでしょう。
池田さん:「やったー!」と手放しで喜ぶ感じではなく、責任感やプレッシャー、不安のほうが大きかったです。率直に「大変なものを託された…」と感じました。
目の前に生後間もない赤ちゃんがいるということは、同じ病院のどこかに、自分のお腹を痛めて産んだわが子を置いてひとりで帰っていく生みの母がいるということです。その方の困難な事情や、身を切られるような覚悟を想像すると、複雑でした。
生みの親が大きな決断をして、養子縁組につなげてくれた命です。その子と私たちが巡り会い、今度は私たちがバトンを受け取った。この命をしっかり繋いでいかなければならない。その思いがすべてでした。
── まさに命のバトンを引き受ける感覚だったのですね。そこから妊娠期間という準備がないなかで、突然赤ちゃんとの生活が始まります。お世話をはじめて、想像と違ったことはありましたか。
池田さん:お腹を痛めて産んだわけではないので、私自身が100%元気な状態でお世話ができると思っていました。でも甘かったですね。2時間おきのミルクと自律神経の乱れに悩まされ、夫のサポートがなければ乗り切れなかったと思います。
バタバタの毎日、それでもすごく幸せでした。会社に勤めていた頃は、職場に不妊治療のことを伏せ、忍者のように気配を消して病院へ通っていました。周囲に平謝りしながら仕事を中抜けし、同僚が仕事のギアを上げていくなか、自分は責任のある仕事に踏み込めず、妊娠にも至らない。「どれもこれも中途半端だ」と、自分を責めていたんです。その後も不妊治療を続け、流産や死産を経験し、大好きだった仕事も続けられなくなりました。どれだけ身を削って努力しても、結果が出なければすべてがゼロに戻ってしまうような残酷さがあり、「自分へのご褒美」と呼べるものがほとんどない日々だったんです。
でも育児は違いました。目の前の赤ちゃんがニコっと笑ってくれる。ただそれだけで、全身が幸せで満たされていくんです。「私はこれがやりたかったんだな」と心から感じました。
── そうして始まった新しい家族の形を、ご親族や周囲の方々にはどのように伝えたのでしょう。
池田さん:ある日を境に子育てがスタートするため、仕事のスケジュールも組み直す必要があったので、まずはSNSで「養子を迎えました」と一気にお知らせしました。
近所の人には、いきなり赤ちゃんを連れて歩いているので驚く人も多く、「あら、妊娠してたの?」と声をかけられることもありました。養子を迎えたことを伝えると、「それはいいね!賑やかになるね」と言ってもらい、しばらくは紹介しながら散歩していました。
ただ、周囲へ伝えるタイミングについては、夫婦で少し違いがありました。私は以前、妊娠を報告したあとに死産になってしまい、それを訂正して回るのが本当につらかったんです。だから今回も「あっせん団体に登録できないかもしれない、養子とご縁がないかもしれない」といろいろなことを考えて、ギリギリまで言わないでおこうと思っていました。
でも夫は、ダメだった時のことを考えない人で(笑)。会社の仲間にも「今、養子縁組の研修を受けてるんだよね」「来年の今頃は3人かもしれない」と大っぴらに話していたんです。結果的には、その明るさに救われました。