「病院に行けば子どもが授かる」と思っていた

── どれだけ努力を重ねても、それが必ずしも結果に直結するとは限らないのが不妊治療のシビアな現実です。
池田さん:健康なのに、卵子を育てるために何度も痛い筋肉注射を打ち、具合が悪くなっていくことに虚しさがありました。冷え性の解消のための足湯や鍼、マッサージ、食事改善などできる努力はすべて重ねました。
最初はどこかで、「病院に行けば子どもを授けてもらえる」と思い込んでいたところがあったと思います。でも、治療はあくまで可能性を高めるだけ。「これだけやってもダメなのか」と、妊娠判定の陰性を突きつけられるたびに深く落ち込みました。どうにもできない現実のなかで、周囲からは2人目、3人目を妊娠したという話が嫌でも耳に入ってくる。誰にも本音を言えず、「こんなこといつまで続けるんだろう、このまま年をとって死んでしまうのではないか、自分の役割って何だろう」という不安をブログに綴っていました。
夫との温度差と衝突も「母になれない」不安感じ
── 不妊治療は、夫婦間の「温度差」に悩む人も少なくありません。ご主人との足並みはいかがでしたか。
池田さん:やっぱりすれ違いはありました。当初2年間タイミング法を行っていた時期がもっとも神経をすり減らしました。医師から指定された日に夫の帰宅が遅かったり、お酒を飲んで帰ってきたりして、避けるようになっていきました。気分が乗らないのはお互い様でしたが、私は職場で周囲に頭を下げながら、時間をやりくりして通院していました。男女で治療の負担が違うことを、夫と十分に共有できていませんでした。生活を共にしていても、互いの見えない苦労やプロセスを想像する心の余裕がなかったのだと、今ならよく分かります。
そうしたすれ違いから衝突したこともありました。
── それほど心身をすり減らしながらも、「母になること」にこだわり続けたのはなぜだったのでしょう。子どものいない人生は、当時の池田さんには、どのように見えていましたか。
池田さん:こだわったというより自分の描いた家族像に囚われていたと思います。もともと母のいない父子家庭だったことが強く影響していると思います。子どもの頃に「もう少しそばにいてほしかった」「悩みを聞いてほしかった」という思いがあったので、自分が大人になったら、いつも隣にいて相談に乗ってあげられるお母さんになりたかったんです。私が30代のころに亡くなった父とは、すごくいい関係だったので「私も父のような親になりたい」という憧れもありました。
そうした親としての理想が、20歳の頃にはもう出来上がっていて、結婚したら次は妊娠して親になるという道ができていた。その生き方が普通という時代の大きな価値観もあったと思います。だからこそ子どもがいないと、自分の人生がそこで停滞してしまうような恐怖がありました。
34歳で会社を離れ、治療に専念しながらフリーランスとして働くなかで、36歳の時には妊娠7か月での死産を経験しました。当時は妊婦さんやベビー服に関わる仕事をしていましたが、死産の後は、どうしても同じ気持ちで仕事に向き合えなくなって。愛らしいベビー服を見ること自体が、どうしてもつらくなってしまった時期もありました。