「今年に入院した時も『ママは死なへんから大丈夫』って言っていたし、私もそう思い込んでいたんです」。数々の雑誌の表紙を飾るなど、活躍を続ける原つむぎさん(28)は、今年4月に最愛の母を亡くしたことをSNSで公表しました。20代で経験する親との別れは耐え難いものがあり、実際に当時の記憶は断片的にしかないそう。でも、不思議と後悔の念はないと明かします。
来ないと思っていたものが突然やってきた

── 2026年4月、28歳でお母さんを亡くしたことをSNSで公表されました。それまで、お母さんと旅行に行ったことを報告することもありましたが、母娘仲はいかがでしたか?
原さん:私はマザコンを自称するくらいママとは友達のような関係で…。親友のような存在でした。連絡を毎日取っていたし、長電話も日常的で、なんでも相談できる間柄でした。
── お母さんはどんな人でしたか?
原さん:どんなことがあっても弱音を吐かない、強い人でした。私が幼い時には、職場の食事会にも連れて行ってくれて、祖父母に私を預けることはほとんどなく、いつでもどこでも一緒だったことが印象に残っていますし、それが小さな私にとって嬉しいことでした。
私は小さい頃、食べ物の好き嫌いが激しかったのですが、ママは私用のメニューと、父のメニューを別々に作ってくれました。当時は当たり前だったけれど、社会人になった今、振り返ると、働きながら食事にも気をつかってくれたママは、本当にすごい人だと思います。高校時代に演劇科に入っていたときも、深夜まで衣装作りをしていると、よく手伝ってくれました。
私の仕事も応援してくれていて、昨年発売した写真集の表紙も、ママと一緒に決めたんです。露出が多い娘の写真は親としてはきっと見たくないものもあったはずですが、私の仕事を理解してくれていました。
何事にも手を抜かない母で…もっと楽に生きればよかったのに、と思います。愛情深いママのすべてが好きでした。
── 本当に仲が良かったんですね。そんなお母さんに、死がよぎったのはいつ頃なのでしょうか。
原さん:5年ほど前に肺腺がんが見つかりました。当時は余命半年と宣告されたのですが、薬が効いてがん細胞が小さくなって回復したんです。だから今年入院したときも、本人は「ママは死なへんから大丈夫」と言っていたし、私も「今回も絶対に治る」と思い込んでいたんです。
「どんなことがあっても、ママは私と一緒に生きてくれる。いつでも話を聞いてくれて、一緒に笑ってくれる存在だ」と思っていました。だから、実際に死が訪れたときは「来ないと思っていたものが突然やってきた」という感覚でした。
亡くなる前日に桃缶を…「最期まで愛情深い母だった」
── お母さんは、どんな最期でしたか。
原さん:亡くなる前日に地元の病院までお見舞いに行ったとき、一般的な食事はもう摂れない状態でした。けれど、できるだけ水を飲んだり、塩をなめたりして、前向きに生きようとしていたんです。病院食で出てきた桃の缶詰のペーストがとってもおいしいと喜んで、「つむぎも食べてみて」とひと口、私に差し出してくれました。しんどいときもまず私のことを考えてくれる、最期まで愛情深い人でした。
その日は、母の顔を見てから東京に戻る予定だったのです。「明日つむぎが東京に帰る前に、たくさん話をしたい。寝たらちゃんと起きられるか不安や」と、私との会話を楽しみにしてくれていました。
けれど、容態が急に悪化して…。亡くなる直前はモルヒネでも抑えられないほど苦しそうでした。だから亡くなったときは、もちろん悲しかったけど、どこかホッとした部分もあったんです。ママを失う悲しみと、ママが苦しみから解放された安堵が一気に襲ってきて、私はかなり朦朧としていたと思います。断片的な記憶しかないんですよね。
── お母さんの死を経て、死生観は変わりましたか?
原さん:ママとは本当に一心同体のような存在だったので、「ママが死んだら自分も…」と思ったこともあります。でも、それは違うなって。ママに与えてもらった大切な命をまっとうしたいと、思い直しました。
正直に言うと、もともとは死についてあまり深く考えたことはなかったけれど、今回の経験で死そのものへの恐怖はあまりなくなりました。天国できっとママに会えると思うから、ママが旅立った場所に私も行けるように、きちんと生きることが今の私の使命かなと思っています。