「死ぬまで死は怖い」だからどんな争いも不要
── 幼少期には、死への強い恐怖症があったと聞いています。年齢を重ねると、死への恐れは薄れるものでしょうか。
渡辺さん:そんなことはないですね。死に対する強い恐怖は、いまだにあります。なにかを見たり、触れたりといったきっかけがあって急に怖くなるというものではなくて、ただ死ぬのがひたすら怖いんです。だって、死んだら、いま見ているものも見えなくなって、何も感じられなくなる。「無」になってしまうわけでしょう?
じつは、うちの父親も戦時中だった10代のころ、当時の日本の少年たちと同じように、武蔵野市の中島飛行機工場という軍需工場で、旋盤工として戦闘機ハヤブサのエンジンを作っていました。4万人が働く工場はつねにアメリカ軍の爆撃を受け、死と隣り合わせの日々。ある日、工場が壊滅するほどの爆撃があるとの連絡を受け、全員が避難しましたが、機械を守るため数人が残るようリーダーに告げられました。父の部署で残る者を決める、死の会議にいたたまれなくなった父は志願。3人の仲間たちと爆撃を待つ間、まるで口から臓器が飛び出すほどの恐怖だったといいます。

極限状態の心を鎮めてくれたのが、高村光太郎の詩だったそうです。そんな父の戦争体験をテーマに『光る時間』という戯曲を書き、公演もされました。父親が92歳になったとき「父ちゃん、もうその歳なら死ぬのは怖くないでしょう?」と聞いたら、「いや、怖い」と。「死を恐れていた10代のころと、なにも変わらない」と言うんです。人間というのは、死ぬまで死が怖いものなんだなと気づかされましたね。
死をすごく怖れているからこそ、私はずっと「戦争反対」を言い続けているんです。自分が死ぬのも怖いけれど、それと同じくらい人が死ぬのも嫌なんです。自分を突き動かしている原動力はなにか。それは、「怒り」や「不満」「悲しみ」といった感情ですね。いつまでたっても世の中は平和にならないし、格差もなくならない。社会の不条理や理不尽さ、そうしたものに対する怒りがあります。誰かが誰かの犠牲になる社会ではなく、みんなが平等で自由な考えを発信でき、好きなことができる。そんな世の中にしたい。その思いを演劇にのせて伝え続けていきたいです。
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幼いころから病気がちで、死への恐怖をもち続けていると話す渡辺えりさん。じつは66歳のときに、大手事務所から独立。スポンサーやキャスト集めもみずから行う日々です。70歳にしてもなおパワフルな姿は圧巻です。
PROFILE 渡辺えりさん
わたなべ・えり。1955年、山形県生まれ。「オフィス3○○」主宰。1983年、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞を受賞。以来、現在に至るまで、舞台や映画、テレビ、歌、戯曲やエッセイ執筆など、幅広く活躍。主演公演『唐十郎追悼公演「少女仮面」』(6月11日〜22日・下北沢スズナリ)、『70祭 渡辺えりコンサート ここまでやるのなんでだろ?』(12月20日・21日・池袋プレイハウス)が開催予定。
取材・文/西尾英子 写真提供/渡辺えり