慶應義塾大学を卒業後、証券会社に就職するも、病気でファーストキャリアにつまずいた肉乃小路ニクヨさん。20代は非正規雇用で厳しい生活を送りますが、自身の「ピンチ」を「チェンジ」のための絶好機ととらえた結果、42歳から新たな人生が花開きます。(全3回中の3回)
急性肝炎で証券会社をわずか2か月で退職し
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── 慶應義塾大学(SFC)卒で、金融業界を渡り歩いてきた経験を持つコラムニストの肉乃小路ニクヨさん。華麗な経歴からずっとエリート街道を歩んでこられたのかと思いきや、順風満帆な道のりではなかったとか。
肉乃小路ニクヨさん:20代はいろいろと厳しい時期でした。新卒で証券会社に就職したのですが、入社直前に急性肝炎で入院。入社式や研修にも参加できず、病室で証券外務員二種資格を取って、初出社したのは5月に入ってからでした。当時の証券会社はかなり厳しい世界だったので、朝6時には出社し、夜遅くまで働いて飲み会にも参加しないといけませんでした。でも病み上がりで体力が続かず結局、6月には退職してしまったんです。
── ファーストキャリアでつまずいてしまったのですね。その後はどんな生活を?
肉乃小路ニクヨさん:証券会社でコールセンターのアルバイトを経て、銀行の派遣社員として金融商品の営業の仕事をしました。その間に投資信託や保険の勉強をし、証券外務員一種と保険販売の資格を取得。夜は大学時代から始めたドラァグクイーン(誇張した女らしさや女装でパフォーマンスを行う人物)としての活動を続けていました。経済的に余裕がなかったので、新宿区にある家賃3万2000円の四畳一間でシャワーとトイレが共同の物件に住んでいました。
キャリアを着々と積み重ね、お給料が増えていく同級生たちと自分を比べて、劣等感を抱いたことはあります。そんなとき、女装の活動が私を救ってくれました。ステージでは自分だけにスポットライトがあたり、お客さんを魅了することができる。この世界を持っていることで「自分の名前で仕事ができている、ほかの人にはない経験をしているんだ」という自負があり、心の支えになっていました。
だから、私自身は順風満帆な道のりを歩んできた「エリート」ではなく、「たたき上げ」だと思っているんです。
── キャリアが花開いたのは30代。30歳手前で、外資系保険会社に正社員として転職されました。
肉乃小路ニクヨさん:銀行時代は営業だけだったのが、外資系の保険会社に入ってからは、販売支援と営業企画の仕事をするように。がむしゃらに働き、管理職に昇進を果たしました。ところが、2011年の東日本大震災の影響で、勤務先が事業規模を縮小することになり、解雇されることに。その後、会社に呼び戻されてもう一度働くものの、ずっと事業の後始末をしているような状態でした。
そんなとき、昔から一緒に活動していたマツコ・デラックスさんやミッツ・マングローブさんがメディアで活躍する様子を見て、「こういう生き方もあるんだ。こっちのほうが楽しそう」と感じたんです。私は大学生のときに父を亡くしているのですが、当時、父は50代前半でした。ですから、元気で自分のやりたいことをやれる時期は、私もそんなに長くないのかもしれない。だったら、思いきって自分の名前で「メディアで発信する」仕事をしてみたい。このピンチは「チェンジ」のための絶好の機会なんだと思い、42歳で会社を辞めてフリーの女装家に転身しました。その後は、夜のお仕事をしながら物書きやユーチューバーとして活動し、今に至ります。
── ピンチは「チャンス」ではなく「チェンジ」だと。
肉乃小路ニクヨさん:ピンチのときは、何か変容を迫られているということ。変わった方がいいというのはたしかなシグナルだけれど、「ピンチはチャンス」だと思うと、なんだか力んでしまうじゃないですか。でも、「チェンジ」なら自分が変わればいいだけ。別に、誰かと比べるのでもなく、自分さえ変われば、状況だって変えられる。だからまずは、「何か私自身で変えられることはないかな?」と考えたほうがいいんじゃないかなと思っているんです。