NSC在学中からM-1グランプリの準決勝に進出し脚光を浴びた三島達矢さんと、大卒で芸人の道を歩み始めた南條庄助さん。「狂言」を取り入れた芸風がすっかり定着したすゑひろがりずのおふたりですが、30代半ばまでは低空飛行のなか、もがく日々がありました。(全3回中の1回)
いきなりM-1準決勝に進む快進撃も
── 「狂言風漫才」で人気のすゑひろがりずのおふたりですが、三島さんと南條さんがお笑い芸人になろうと思ったきっかけを教えてください。

三島さん:高校卒業後はフリーターでした。22歳のころに周囲が就職し始めるのを見て、将来を考えるようになりました。お笑いが好きだったから、一度挑戦してみようと思い、NSC(吉本総合芸能学院)大阪校に願書を送り、通い始めました。そこで南條の前に組んでいた別の相方と「バルチック艦隊」というコンビを組みました。
南條さん:子どものころからテレビやお笑いに憧れていました。とはいえ、当時はまさか自分がお笑い芸人になれるとは思っていなくて、大学に進学しました。卒業後の進路を考えるタイミングで「やっぱりお笑いに挑戦したい」と考え、挑戦することにしました。
── NSC在学時代に三島さんがコンビを組んでいた「バルチック艦隊」は、2005年のM-1グランプリで準決勝まで進出する活躍ぶりでした。
三島さん: NSC在学中にM-1の準決勝まで進むのは、かなり珍しいことでした。2004年、NSC東京校に在学中で、すでにテレビでも活躍していたオリエンタルラジオさんがM-1の準決勝まで進出していたんですね。翌年、準決勝に進んだ僕も注目されて。「東のオリエンタルラジオ、西のバルチック艦隊」みたいに言われていました。自分でも「俺って才能あるのかも」なんて浮かれていたと思います。ところが、周囲の期待とは裏腹にネタが全然ウケないんです。「あれっ?思ったようにいかない」と、ブレーキがかかった状態になっていました。
── 注目されたにもかかわらず、なかなか芽が出ない状態はもどかしかったと思います。
三島さん:「うまくいかないのは相手のせい」と、コンビ仲が悪くなっていきまして…。「もう解散だ」と言ったら、当時の相方も同じように考えていて。周囲からはものすごく止められたんですが、わりとあっさり解散となりました。正直、あのころは自信があったから、「誰とコンビを組んでもうまくいく」と天狗になっていたかもしれません。その後、何年も低迷するとは想像していませんでした。
今思えば、「バルチック艦隊」の評価が高かったのは、当時の相方との相性がすごくよかったからです。おもしろい人がふたりいても、おもしろさが2倍になるわけじゃなくて。コンビのテンポやノリが合ってこそ、お客様に楽しんでいただけるのを当時は気づいていませんでした。