「私はいつもあなたの協力者でファン」ハグも欠かさず

── 中学校を卒業したあとは特待生で地元のサッカー強豪校・桐生第一高校に進学。卒業後はアルビレックス新潟に入団されました。

 

鈴木さん:U-16日本代表にも入ることができ、武蔵の中でプロになる意識が芽生えていた一方で、「もしもオファーが来なかったら専門学校に行って自動車整備士になる」と言っていました。私は「だったら、大学進学もいいんじゃない?大学のお金くらい出すよ。お母さん、頑張って働くから大丈夫だよ」と伝えて、石川県で開かれていた大学サッカーのカップ戦を見に行きました。本人が興味を持った早稲田大学にも足を運んで、「いいじゃん!施設も整っていて、最高の環境でサッカーができるよ」と言ったのですが、直後にアルビレックス新潟から練習参加のオファーをいただいて。運よく入団することになりました。

 

桐生第一高校時代の武蔵さん

── 武蔵さんが独り立ちするまでの間、育児をするうえで心がけていたことを聞かせてください。

 

鈴木さん:これはすごく反省しているのですが、昔はあまり栄養について考えられていなくて、いいかげんな母親でした。武蔵が子どものころは塾の講師の仕事が夜10時ごろまであったので、帰宅が遅くなると翌朝起きられないときもあって。「これを食べて行ってね」とコーンフレークと牛乳を置いて、武蔵が自分で作って食べていたりもしていました。高校生のときは必ずお弁当だけは作っていたのですが、私が食事バランスや栄養を本格的に気にし始めたのは彼がプロになってからで。骨折が多かったのは私のせいだったんじゃないかなと感じています。

 

育児をするうえで心がけていたことと言っても、確固たる教育方針みたいなものはなくて(笑)。ただ、サッカーの送迎と応援はできる限りしていたのと、高校生のころまではハグもよくしていました。小学生のときは、試合中に大声で応援したり、武蔵のプレーに対して「そこじゃないだろ!」とか「ちーがーう!」とか監督のように声を出したりもしていたんですよ(笑)。試合後の車中でも「あんた、あのときあそこにパス出してたけど、本当はこうしたほうがよかったんじゃない?」とダメ出しをして、武蔵から「お母さんはサッカー選手じゃないのに、何がわかるん?」と反論されたこともありました。

 

中学生になると、お互い忙しくて、送迎の時間だけが唯一、2人になれるタイミングだったんです。自宅には私の父と母がいるので深い話はなかなかできないのですが、車の中だけは親子でゆっくり話すことができました。もちろん、彼が疲れて寝てしまって話をしない日もあれば、一緒に合唱コンクールの歌を歌っているだけの日もあったんですけどね(笑)。高校生になると、朝早くから出かけることがさらに増えました。私はあとから試合会場に行って「あー、いるいる」と遠くから見守るようになったので、武蔵が夜帰宅したときに「むっちゃん!きょう初めてちゃんと会えたね~」と言ってハグをしたりもしていました。

 

プロに近づくにつれてハグをしたり大声で応援したりプレーに口出ししたりすることもなくなったのですが、昔も今も、行けるときは試合観戦をすることが「私はあなたの協力者でファン。いつでも応援しているわよ」というメッセージになっていたらいいなと思っています。

 

 

アルビレックス新潟に入団してからV・ファーレン長崎に移籍するまでの間に、2年間くらい成績を残せない時期があったのですが、そのときも彼にどうしても直接伝えたいことがあって、飛行機で長崎へと飛びました。

 

PROFILE 鈴木真理子さん

すずき・まりこ。埼玉大学を卒業後、国内の旅行代理店を経てジャマイカ専門旅行代理店の現地法人で勤務した。長男(サッカー・鈴木武蔵選手)、次男を出産後に帰国。地元・群馬県太田市で英語塾「地球塾イングリッシュスクール」を経営するなどしながら兄弟を育て、現在も現役で講師を務めている。

 

取材・文/長田莉沙 写真提供/鈴木真理子