さまざまな背景を持つ婚活者に対して、叱咤激励をする植草美幸さんの姿をテレビで見たことがある人はいるでしょう。彼女が代表を務める結婚相談所の成婚率は驚異の8割超え。類を見ない目利き力は、幼少期から養われていました。(全2回中の1回)

アパレルの販売員としてスタートした会社員時代

── 男女共に交際経験の減少が続く昨今、自然な出会いによる結婚のハードルは高く、婚活サービスに頼る人が増えているといいます。そんななか、高い成婚率とユニークなキャラクターでメディアでもひっぱりだこな植草美幸さん。結婚相談所を立ち上げる前は、アパレル業をされていたとお聞きしました。

 

植草さん:もともとファッションが好きで、アパレルの販売からキャリアをスタートしました。というのも私の母は洋品店を経営していて、自分でデザインした洋服を縫い、店頭のショーウィンドーにディスプレーしてお店で売っていたんです。私も3、4歳のころからお店でお針子さんたちの真似をしては、ハンカチを縫ったりしていましたね。小学生になると、日本橋三越で子ども服を買ってもらったり、母が仕立てた洋服を着て学校に通うようになりました。だから、いろいろ言われました。当時はみんなちびまる子ちゃんのようなスカートを履いていたのに、私はパンツスタイルで学校に行って、「男だ!」とからかわれることもありました。

 

植草美幸さん
アパレル業界時代のスタイル抜群な植草美幸さん

私にとってアパレルに就職したのは自然な流れ。でも、アパレル業界って「売れてる?」が挨拶がわりで、周囲のお店の人や業者との会話もそれしかない。毎日出社するたび、その繰り返しです。何十年もこれを続けるのは、私にはちょっときついかなと思ってしまった。それに販売員はどんなに業績をあげても、お給料が他の人と倍も違うわけではありません。同じアパレルでも経営者なら実入りも違うし、やりがいはある。独立しようと決め、1995年4月に自分で会社を立ち上げました。メーカーに依頼されて服を売る、販売代行業という仕事です。

 

販売員時代に人脈がいっぱいできたので、それが私の強みになりました。独立するときある婦人服メーカーさんのお偉い方に、「今後御社の販売を代行したいので、まず一店舗預けてください」と言ったら、「いよいよですね。ずっと当社に販売員で来てほしいと誘っていたけれど、こういう形で関わってくれるならかえって良かった」という言葉をいただき、まず郊外の百貨店にあったお店を一店舗任せてもらうことになりました。25坪あるのに年間7500万円しか売れていない店舗の売り上げを、15%伸ばすことが目標でした。

 

私がまず店長で、モデルと女優の友だちひとりずつと店に行きました。彼女たちはアパレルに関しては素人です。「私たちは何をすればいいの?」と聞くので、モデルの子には「この服を着て、お店の中を背筋を伸ばしてカッコよく歩いてみて」と言い、女優の子には「自分がお店で一番売る販売員の役を演じて」と言って、販売してもらいました。

 

植草美幸さん

そうしたらすごい勢いで服が売れていきました。もともとの会社が運営していた前日の売り上げは1日25万円だったところ、私が引き継いだ翌日には100万円になった。4倍売ったからみなさん驚かれて、百貨店中のアパレル店員からお偉い方まで店に見に来ていましたね。

 

当初の契約では、年間7500万円の売り上げを8500万円にしてくれればいいから、という話でした。ところが最終的には1億1000万円の売り上げに。そこから「こちらの店もやってください、こちらの店も」と声がかかるようになり、どんどん広がっていきました。
 

── 順調な滑り出しですね!

 

植草さん:気づいたら販売代行をする店舗は1年後には15店舗になっていました。販売代行なので、品揃えもすれば、販売員の教育、顧客管理に在庫管理もします。単なる派遣とは違って、毎月の棚卸しでロス(帳簿の在庫数と実際の在庫数の不一致)を出すと補填しなければいけません。ただ当社は優秀なスタッフを揃えていたので、ロス率はすごく低かったです。

 

最終的に販売代行は25店舗に増えました。自社で投資する路面店も2店舗持っていたので、常時27店舗回している状態です。そのほかに販売教育のトレーナーを派遣する事業も展開していました。たとえば、大阪の店舗に4泊5日で行って指導して、2日休んだら、次にトレーニングをする京都にあるホテルに荷物を宅配便で送って、という具合に日本全国を回るんです。私自身は管理役です。売り上げやクレーム率、店舗の状態を見て指示していきました。150人いた販売員はみんな若い女性たちなので、結婚したりして辞めていく。毎日のように求人を出し、面接をしていましたね。勢いがあったと思います。

リーマンショックでアパレルの限界を知った

── そんななか、結婚相談業へ事業転換されたのはなぜでしょう。

 

植草さん:きっかけは2008年のリーマンショックでした。私たちが販売代行していたお店は高級店でスカートが2万円、ジャケットが4万円します。会社員の女性たちがセットアップで10万円近い服を日常的に着る時代でしたが、リーマンショックで消費が落ち込んで、物が売れなくなってしまった。ただ、じつはそれ以前に、もうアパレルは厳しくなるなとは思っていました。ユニクロが何年も前に出てきて、これから先は高い洋服は売れなくなるなと感じていたんです。ファストファッションの時代に突入すると見込んだので、アパレルはこれで終わりにしようと決めました。

 

幹部社員を集めて、「よし、違う事業をやろう!」とアイデアを募りました。すると「老人ホームをやりましょう!」「保育園をやりましょう!」と2つの案が提案されました。ただ、いろいろ調べてみると、それらは準備するまでに数年かかる。そんなに時間をかけてはいられません。そうしたらある幹部社員が「そういえば社長って若いころからボランティアで仲人やっていますよね。さらにお祝い金も払って、披露パーティーの会費まで払っている。でもそれ、本当はその行為自体がお金になるんですよ」と言い出して。

 

実際に私は10代のころから周りの男女を引き合わせていて、彼らが交際して結婚することも数多くあったんです。「彼氏がいなくて」なんて話を聞けば、「じゃあ私の友だちを紹介するよ」と言ったりして、30組は結婚したと思います。それによくよく考えてみたら、うちの母も父が会社経営者だったので、その従業員を何十人も結婚させているんです。「ああいうのがいまはビジネスとして成り立つんだ」と知り、翌日から結婚相談業に乗り出しました。