来年で30周年を迎える人気ブランド「Candy Stripper(キャンディストリッパー)」。今も年代を問わず多くのファンに支持されるこのブランドを若干19歳で立ち上げたのが、板橋よしえさん(49)です。高校は進学校に通い、まさか自分がデザイナーになるとは思わなかったといいます。(全2回中の1回)
進学校からファッションの専門学校へ
── 板橋さんの服好きのルーツは、お母さまの影響もあったとか。裁縫がお得意だったそうですね。
板橋さん:母は洋裁学校に通っていた経験を生かして、自分で作った服を私に着せてくれていました。ニットのマフラーや手袋を作ってくれたり、セーターを編んでくれたり。下北沢の生地屋さんで購入したという、イギリス製のタータンチェック柄のウール地で、60年代っぽいワンピースを作ってくれたこともあります。レトロ風のデザインがお気に入りでした。幼少期、母によく絵を描いてもらっていて、その絵がかわいかったので、自分もマネをして描いていた記憶があります。
── 板橋さんご自身も、裁縫がお得意だったのでしょうか?
板橋さん:それが、洋服を作ることにはまったく興味がなかったんです。絵を描いたり、工作は好きだったけれど、縫ったり編んだりはしていなくて。子どものころは、まさか自分がデザイナーになるなんて想像もしていなかったです。
── ファッションに興味を持たれたのはいつごろだったのですか?
板橋さん:小学3年生のころ、自分で選んだスポーティーなデザインのメッシュのトップスを自分で選んで着ていったら、その服を友達に褒められて。それがすごくうれしかったのを覚えています。それ以来、自分で服を選ぶようになりました。でも娘は、3歳のころからもう自分で選んでいるんですよ。すごいなって思います。
── 板橋さんとは同年代ですが、学生時代はギャル文化が盛んでしたよね。
板橋さん:そうですよね!私の周りもギャル文化の影響がすごくて、ルーズソックスを履いて、90年代に流行った「ESPRIT(エスプリ)」のトートバッグを持って、「ジバンシィ」のプチサンボンの香水をつけていたり。私はその系統とは真逆のファッションで。ミッキーマウスのワンポイント刺繡が入ったハイソックスを履いて、「ヒステリックグラマー」のショッパーを斜めがけにして学校に通っていました。ひとりだけ浮いていましたね。
── 進学校に通っていたそうですが、そこからファッションの専門学校に進もうと思ったきっかけは何だったのでしょう。
板橋さん:高校は、大学に行くのが当たり前という雰囲気で、私もなんとなく大学進学を考えていました。でも、いざ進路に迷って「自分が好きなものはなんだろう」とあらためて考えたときに、洋服のことしか考えていないことに気づいて。こんな洋服があったらいいなとか、雑誌を切り貼りして、このコーディネートがかわいいなどと夢中で考えていたので、大学よりも被服について学べる学校がいいかもと思い始めました。
── 好きなことを学ぼうと思ったのですね。
板橋さん:そうですね。大学より専門学校に進学したいと思い、いくつか資料を取り寄せました。そして候補のひとつだったバンタンデザイン研究所のセミナーに参加してみたんです。堅苦しくなくて、一人ひとりの個性を認めてくれるような雰囲気がいいなと思いました。
── 進路はすんなりと決まりましたか?
板橋さん:いえ、全然。学校の先生からは「バンタンだと就職するときに高卒扱いになってしまうからやめたほうがいい」と反対されましたし、周りからも大学の被服科を勧められて。でも私は「この学校に行きたい」と譲りませんでした。親だけは「自分がやりたいことができる好きなところに行きなさい」と言ってくれましたね。
デザイン科を選ばなかったのに服作りに熱中
── 学校ではデザイナー科に進まれたのですか?
板橋さん:当時は自分がデザイナーになれるとは微塵も思ってもいなかったです。自分には何が向いているのかわからず、ファッション全般に携わることができそうなビジネス科に入りました。ビジネス科は、1年次はファッションの基礎を学び、2年次にスタイリストやブランドのプレス、ショップ運営を学ぶコースを専攻できる科でした。1年次は基礎となるようなデザイン画やパターン、アパレルについて学びました。2年次はプレス科を専攻し、ブランドポートフォリオを作って、ブランド構造のベースとなるコンセプトやテーマ、背景、ビジュアルイメージ作りなど、自分のブランドを想定したビジネスについて学びました。
── 入学してみて、勉強は楽しかったですか?
板橋さん:写真を撮ること、ヘアメイクのイメージを想像すること、ブランドのプレスに興味がありました。でもどの職種が自分に合うのかわからなくて。まずは興味のあることをどんどんやってみようと始めた友達との作品撮りをきっかけに、自分の頭の中の世界観を形にしたいと強く感じ始めました。衣装を作ってモデルさんに着てもらい、自分で撮影をし、発表する。それが結局、ブランドの立ち上げに繋がっていったんです。
── ミシンなど裁縫の技術は独学だったのでしょうか。
板橋さん:独学でしたね。「こういう服が作りたい! 」という気持ちを形にすることがいちばんの目的で、立体裁断で衣装を作るような感覚だったので、今見たら縫製は汚いと思うのですが(笑)。仲間たちに声をかけ、定期的にファッションショーを開催するようになりました。当時、西麻布にあった「イエロー」や渋谷のクラブなどを貸し切り、友人にヘアメイクやモデル、DJをお願いして、仲間みんなでチケットを売り、赤字にならないように工夫していましたね(笑)。
── 専門学校生とは思えない行動力ですよね。
板橋さん:10代のころから、自分で何かを作って表現する世界にとても興味があったんです。高校生のころ、原宿の文化屋雑貨店でアルバイトを始めたので、毎週原宿へいくようになりました。原宿にあった、何気なく立ち寄ったセレクトショップで募集していた、歩行者天国で自作の服を着て行うゲリラファッションショーにも参加したりもしていました。