漫才への向き合い方が酷かった暗黒期
── 大学卒業後はバイトをしながら芸人として活動されていきます。2019年にM-1グランプリで優勝するまで10年以上あったと思いますが、その間、どうやって過ごしていましたか。
駒場さん:最初の5年くらいは舞台やショーレースに出て、「若手でおもしろいコンビ」みたいな感じで雑誌に書いてもらうこともあったんです。M-1グランプリの予選にも出ましたが、2010年でいったんM-1グランプリが終わってしまい。
ちょうどそのあたりから、芸人の先輩らとたまたま知り合うようになって、飲みに行く機会がすごく増えました。僕、飲み会でめちゃ盛り上げるタイプでもないですし、ただよく飲んで、よく食べてただけなんだけど、「駒ちゃん行ける?」ってしょっちゅう声かけてもらって。先輩たちの話を聞きながら「これも勉強や」って思ってたんですよね。
ただ、これが5年も続くといつも楽しいけど、この先どうしよう…っていうのもうっすら感じてきて。大阪芸大の落研で一緒だった一個下の「ななまがり」もそのころから劇場のメンバーになって結果を出してて、「自分らは何もしてないぞ」っていうのが余計に積もっていった気はします。お笑いを辞めたいとか解散とかは考えたことなかったですけど、漫才への向き合い方は今思えば酷かったですね。いわゆる僕らが「暗黒期」と読んでいるのもこの時期です。
── ポールダンスをやっていたのもこのころですか?
駒場さん:そうです。僕は週7日ジムに通っていたんですが、鍛えていてポールダンスしているやつはいないとか言われて教室に入ってみることに。月謝が高くて2、3回で辞めましたけど、ポールに足引っ掛けてクルクルって回るやつだけできたかな。ほかにも、掃除好きだったので掃除検定みたいな資格を持ってたらテレビとかに呼ばれやすくなるんちゃうかって勉強を始めたり。まぁ、しょっぱいですね(笑)。
お笑いってひとつのことを極める人と、幅広くやる人がいると思うんですけど、僕は今思えば前者なんですよね。でも当時は幅広くやる人と一緒におることが多くて、その人らはできるけど、俺は手に負えんかった。漫才だけやっておけばよかったのに、いろいろ手を出して、当時のこと、後輩らにいじられますもん。「あのとき変でしたよね」って(笑)。自分でも当時を振り返って、辞めとけ辞めとけって思いますし。
先輩から確信をついた言葉を言われて
── 漫才に向き合い直したのは海原やすよ・ともこさんの影響もあったとか。
駒場さん:やすともさんの『やすとものどこいこ!?』という番組に出させていただいた時期があって、ともこさんと僕の2人で韓国ロケに行かせてもらったことがあったんです。僕も気合を入れて行ったんですけど、結果何もできなくて、ロケからの帰り、空港で泣きました。
それくらいの時期にやすともさんとしゃべっていたら、「駒ちゃんたち、昔はおもしろかったって後輩から言われてるで」って言われて。自分らもちゃんとできてないって思っていたから確信つかれた感じ。これはあかんてね。ちょうど同じ時期に内海のお母さんも病気になってて。内海は芸人辞めようってなってたみたいですが、お母さんの意識が戻ったときに、「うちの息子、芸人やってるんです」って看護師さんに言ってるのを聞いて、またちゃんとやろうって思ったらしいです。お互いに、またちゃんと漫才に向き合おうってなったタイミングが同じだった。これが少しでもズレてたら続いてなかったかもしれないです。
── そこからさらに本腰を入れて
駒場さん:飲み会もまったく行かなくなって、漫才に集中しましたね。2019年にはM-1グランプリで優勝できましたが、あの日から人生が大きく変わりました。
PROFILE 駒場孝さん
こまば・たかし。1986年大阪府生まれ。2007年から内海崇とお笑いコンビ・ミルクボーイを結成。19年に『M-1グランプリ』で優勝。2018年結婚し、現在は2児の父。
取材・文/松永怜 写真提供/駒場孝