「こんな弱ってる僕にそんなこと言わないでくれ」

左から母・岡江久美子さん、真ん中・大和田さん、右・娘さん

── 当時は緊急事態宣言も出ていて、家族ですら面会もできない時期だったとか。

 

大和田さん:4月6日から亡くなった23日まで、この時期がいちばん地獄でした。私と父は離れて暮らしていたので、1日1回先生から父の携帯に母の症状を伝える電話が掛かってきて、父から私にも内容を伝えてもらっていたんです。

 

私は娘とふたりで暮らしていましたが、病院の近くに住んでいても中に入れない。父だって愛する妻がこの中にいるってわかっているのに入れない。コロナ禍初期で、より緊張感があった時期かもしれませんが、何かせずにはいられなくて、防護服を着て母のところに行きたいって言ったけどダメ。母の携帯が近くにあるだろうから、母に音楽を流させてくれないか。または、孫の声が好きだから孫の声を聞かせてあげられないか。あと、はしご車を借りて外から母を見たいとか、いろいろ提案したんですけど、すべて父が却下。父は病院から毎日電話をもらっていたので、電話の後ろから医療従事者たちが逼迫しているのがわかると言うんです。父はとても真面目なんですけど、母の入院中に何度かけんかしました。父に「こんなに弱ってる僕にそんなこと言わないでくれ…!」って言われてから私も何も言わなくなりましたが、病院から掛かってくる電話をただただ待つしかできないのは、私も父も本当につらかったです。

 

── 病院からの電話ではどんなお話をされたのでしょうか?

 

大和田さん:「あんまりよくなってないですね」から始まって「もっと悪くなった」後半は「厳しいです。延命しますか?亡くなったらひとりしか会えないです」「危篤です」って、すべてトントントンって話が進み、こんな大事な話も電話で聞かなきゃいけないんだって悲しかったです。日本でもコロナに対して今以上に知識や情報がない時期だったし、父もわかりましたっていうしかないですよね。

 

── お亡くなりになったときは、病院から連絡が来たのでしょうか。

 

大和田さん:「亡くなりました」「わかりました」と言って父がひとりで病院に行きましたが、そのまま荼毘に付したので、母は家に戻って来なかったんです。都内でも受け入れるところがなかったようで、千葉の方まで行ったようですが詳しいことはわからないまま、遺骨になって帰ってきたのがあの映像ですね。自宅の前で葬儀会社の人なのかな。お骨を直接渡せないからと家の前に置いて、後から父が受け取って。私もテレビで観て言葉を失いました。

 

何から感染するかわからないからと、母のバッグも燃やされちゃったし。火葬場にも行っちゃいけないと言われましたが、仕方がなかったと頭でわかっていても、どうしてなのか当時からわからないまま今に至ります。 いまだにこんなことが起きるんだなといった感情を抱えながら、今できることを自分なりにやっているところです。

 

PROFILE 大和田美帆さん

おおわだ・みほ。1983年生まれ。東京都出身。2003年、舞台『PURE LOVE』でデビュー。ミュージカル『阿国』、音楽劇『ガラスの仮面』、『アマデウス』、『ハリーポッターと呪いの子』など多くの舞台で活躍。「チョイス@病気になった時」にMCとして出演中。1児の母。

 

取材・文/松永怜 写真提供/大和田美帆