元宝塚歌劇団花組トップスター・愛華みれさん。わずか1400グラムで生を受けた少女が、鹿児島から夢の舞台を実現するまでには、さまざまな苦労があったそうです。(全4回中の1回)

「あなたは、その子のぶんまで生きているのよ」

幼稚園時代の愛華みれさんと父、きょうだいたち
幼稚園時代の愛華さんと父、きょうだいたち

── 愛華さんのお生まれは鹿児島ですね。

 

愛華さん:はい。両親と兄、姉、私、弟の4人きょうだいで、姉とは年子です。

 

実は私、8か月の早産で1400グラムの未熟児として生まれたんです。夜中の3時45分に自宅で生まれ、すぐに保育器のある市内の病院へ1時間かけて向かいました。田舎の病院だったので保育器の数が限られており、最初は「空いていない」と言われたそうです。

 

両親が諦めかけていたそのとき、看護師さんが背中に向かって「保育器が空きました」と声をかけてくださって。つまり赤ちゃんが亡くなられて、私が代わりに保育器に入ることができたんです。その瞬間、両親には言葉では言い表せない想いがあったと思います。

 

私がその命のバトンを知ったのは小学6年生のとき。名前の由来を書く作文がきっかけで、「あなたは、その子のぶんまで生きているのよ」と母は話してくれたんです。それが私の人生の始まりでした。

 

── その後の成長は?

 

愛華さん:元気いっぱいに育ちました。母は医師から「こう育てなさい」と細かく指示されたみたいなんです。でも母は「それじゃあダメ。この子は強くなれない」と母なりの育て方をしたようです。保育園では「ボス」と呼ばれるほど活発で(笑)。幼少期は野山を駆けまわり、決して褒められた話ではないんですが、トランシーバーで周りの友だちに指示を出したり、かなりわんぱくだったんです。

 

家でもその性格は発揮していましたね。うちは製材業を営んでいて、叔父叔母が10人ぐらいいる大家族。長男の家だったので、夏休みや冬休みに子どもたちが集まってくるんです。姉は母たちの料理を手伝っていましたが、私は子どもたちを外に連れ出して遊ばせる役。まだよちよち歩きの子も含め30人ほど引き連れて、体力テストをさせたりしていました(笑)。今思えば、宝塚で責任者を任されることが多かったのも、このころから自然と身についていた力だったかもしれません。

大学推薦を断って、1回限りの挑戦に賭ける

小学3年生の頃の愛華みれさん
小学3年生のころ。後列右が愛華さん

── 小さいころから芸能のお仕事に興味があったのでしょうか。

 

愛華さん:実はそうでもなかったんです。うちは封建的な家で、祖父がいる間は芸能的なことはさせてもらえないと思っていました。祖父が亡くなった後、母が日本舞踊を始めて、私も姉と一緒に習い始めたんです。私が6歳のころですね。

 

両親は、もともと宝塚や映画が好きだったんですが、私自身の夢は学校の先生になることでした。そもそも「都会に出る」という考えすらなくて、ずっと鹿児島の県内で生きていくんだと思っていたんです。

 

── 宝塚を目指すきっかけは?

 

愛華さん:母の影響が大きいですね。私は中学、高校と剣道をやっていたんですが、進路を考える時期に母が「あなたは男役っぽいから、宝塚なんてどう?」と軽い感じで言ったんです。それまで宝塚のことをよく知らなくて。いっぽう、姉はベルばらブーム真っただ中。家には鳳蘭さんや安奈淳さんなど、タカラジェンヌの生い立ちを描いた漫画がありました。「宝塚って、姉が持っていたあの漫画か」と思って読み始めたら「こんな世界なんだ」と。

 

姉は日本舞踊の道に進んだため、「じゃあ、私は宝塚に行かなきゃいけないの?」って、母にうまく洗脳されたのかもしれませんが(笑)。

 

── そこで初めて宝塚の舞台を観られたのですか?

 

愛華さん:中学のときに一度だけ、宝塚歌劇の全国ツアーが私たちの市にやってきて『風と共に去りぬ』を観ました。母が半年前からチケットを取ってすごく楽しみにしていたんです。でも、私は朝から学校があって、それから2時間半かけて市内まで行って観たので疲れて寝てしまって…。クライマックスでスカーレットさんが階段から落ちるシーンで母に「もう、こんな貴重なチケットだったのに。あなたは…」と怒られてしまいました(笑)。まさか、その後、自分が宝塚を目指すことになるなんてまったく思っていなかった。

 

実は昨日、その舞台に出演されていた方と一緒にライブする機会があって。人生って本当に不思議だなと思いますね。

 

── 宝塚を目指すと決めたとき、周りの反応はどうでしたか?

 

愛華さん:進路指導の先生に宝塚を受けたいと伝えたら、「君が通るわけがない」と一蹴されたんです。「先生、やりもしないことを端っからダメって言うんですか?」と言い合いになってしまいました。先生は「大学の推薦も決まっているんだから、それでいいじゃないか。安定した道を進むことが君の幸せだ」と。「バレエやピアノをやっているのか」と聞かれたので「何もやってないです。これからです」と答えたら、「そんな人は通らない」と首を横に振るんです。

 

そして先生は八千草薫さんのお名前を出し「ああいう綺麗な人しか入れないんだぞ」と言い、私の顔をじっと見て「無理だな」とはっきり言われました(笑)。それで私も「だったら先生、大学の推薦はいりません。一本で行ってダメでも大学は受けられます。でも、宝塚は私にとって1回限りのチャンス。このチャンスに賭けたいんです」と宣言したんです。

 

今になって思うんですけど、もし先生が「そうだな、受けてみろ」と言われたら、逆に尻込みしていたでしょうね。全否定されたことで「やってやる!」という気持ちになったのだと思います。