「家を出なさい」と母。夢を叶えるため東京へ
── 大学を辞めざるを得なくなり家計を助けられたとのこと。
玉城さん:18歳の春から19歳のころは、当時4つぐらいバイトを掛け持ちし、朝から深夜まで働いて家計を助けていました。当時は家の中も殺伐としていましたね。そんなある日、母が「もうどこか見えないところに行ってくれ」と言ってきたんです。必死に家にお金入れてるのにすごいショックで。当時、妹からも「お姉ちゃんは恩着せがましい」と言われていました。「私はあんたたちのために高卒になり大学もやめてアルバイトしてるんだ!」というオーラを放っていたんでしょうね。
「こんなに家族に尽くしてるのになんてひどいことを言うんだ」と上京して、「二度と家に帰るものかー!」となるのですけど、それは母の愛情でした。「あなたは夢があったでしょ。これからは第二の人生だから東京に行きなさい」ということだったんです。私は子どものころから歌うことが好きで、亡くなった父も音楽が好きな人でしたから「歌手になれ」と言ってくれていました。高校のころは、軽音楽部でバンドを組んで、ボイストレーニングにも通い、将来は音楽の仕事がしたいなと思っていたんです。父の騒動で「歌手になりたい」という夢を口に出せなくなっていた状況で背中を押してくれたわけです。
── 東京ではどんな生活を?
玉城さん:仕送りなどはありませんし、バイトに明け暮れていました。広島から出てきて歌手になる術がわからず、新聞の劇団員募集の広告をみて、劇団に入ったんです。でも何か違うなと(笑)。その後、別の事務所に入れて歌の活動ができることになったんですが下積みも長かったです。メジャーデビューが34歳なので今年で、ようやくプロ10年目になります。
下積み時代、初めてCDを出したのは27歳のとき。最初に入った事務所の社長が売れ残ったCDを段ボールにビニールシートをかけて私に持たせて「路上で歌ってCDを売ったお金だけで東京まで戻って来い」って福岡に置き去りにされたんですよ(笑)。「どうか私の歌を聞いてください」って路上へ出るもなかなか売れず。現地で出会ったストリートミュージシャンに頼んで楽器弾いてもらえませんかってお願いして歌ったり、ときにはスナックで歌ったり。それでお金を得ては深夜バスで移動して…という感じでした。
27歳にもなってカラオケボックスで寝たり、お風呂にも入れない生活をしていて、周りの友人が結婚して子どもが生まれ、仕事も安定した生活をしていくなか、本当にみじめで。でも私は、CDを売らないと次のバス賃がないですから、もう必死。故郷の広島にたどり着いたときは、ブルーシートで包んだダンボールを引きずった娘の姿を、母は哀れんだと思います。でも私は久しぶりに実家でお風呂に入れたことがうれしくて(笑)。当時の苦労はほんとうに今に生きてます。いろんな方の悩みや苦労に寄り添えるので。よかったと思います。
旅の途中、決して裕福な生活をしている方ではなかったんですけど、おばちゃんが「あんた泊っていきな」って。私みたいな貧乏で苦労している人にやさしいんですよ。「私も大変なんだけどさ」って。温かかったです。いろんな人に助けられて17日間かけて東京へいきました。
そんな経験をしたおかげで、少々のことでは動じませんし、どこでも寝られます。ミカン箱の上で歌う現場でも歌えます(笑)。今、命の大切さを伝える講演「命の参観日」を全国で行っているのですが、その講演にもつながる人前で話す話術や世渡り術、生き抜く力が身につきましたね。
PROFILE 玉城ちはるさん
たまき・ちはる。1980年4月19日生まれ。広島県出身。シンガーソングライター・家族相談士。24歳からアジア地域の留学生支援活動「ホストマザー」を10年間継続。36名の留学生を送り出し、その「ホストマザー」の経験を生かし現在アーティスト活動の傍ら全国の小中学校・高校・大学を廻り「命の参観日」という講演を行っている。広島安田女子大学にて非常勤講師も務めている。
取材・文/加藤文惠 写真提供/玉城ちはる