現在シンガーソングライターとして活躍する玉城ちはるさんは18歳で父親の自殺を経験。精神疾患を持つ父親から目が離せない状況で過ごした高校時代を「今思うとヤングケアラーだった」と振り返ります。経済的な苦労も乗り越えどのように「歌手」になる夢を叶えたのか、お話を伺いました。(全4回中の1回)

 

※本記事は「自殺」に関する描写が出てきます。体調によっては、ご自身の心身に影響を与える可能性がありますので、閲覧する際はご注意ください。

誰にも相談できなかった父親の精神疾患

玉城ちはるさん
「ヤングケアラーだった」当時を振り返る玉城さん

── 玉城さんは自殺遺児であることを公表なさっています。当時のことを教えていただけますか?

 

玉城さん:私の父はとても人情に厚い優しい人で、保護司の方に頼まれて少年院から出院した人を預かったりするような人でした。私が高校生のころ、そんな父がときどき自殺未遂を起こすようになったんです。

 

当時、父は建物(建築物)の解体業をやっていて、阪神淡路大震災後の被災地の解体の仕事をしていました。復興には10年かかると言われていたので、本格的に仕事をするためにも3億円くらいかけて重機を購入したのです。ただ、いいことなのですが、予測より早く復興が進んだため、父の仕事は激減。回収しきれない借金だけが残りました。バブルもはじけて父は返済できず、心が病んでいきました。実は、父はこの事情をいっさい家族に明かさなかったため、すべてを知ったのは亡くなったあとだったので、なぜ父が死にたいという思いを口にするようになったのかわかりませんでした。

 

── お父さんは病院にはかかっていらっしゃったのですか?

 

玉城さん:精神科ではなく、普通の内科に「体調が悪い」といってかかっていました。今思えばうつ(双極性障害)症状だった父ですが、当時はまだ精神科に行くことはハードルが高く、周りに知られると距離を置かれるという発想がある時代だったんです。周囲も私たち家族も精神の病に関して知識が乏しかった。

 

ふさぎこんでしまうこともあれば、元気が出たときはみずから自分を傷つけたり、母へ暴力をふるってしまう。他害のときは私が間に入って止めないといけなかったので目が離せない状態で、高校生ながら「自分がどうにかしないといけない」と、常に父のことを考える日々でした。

 

父が自分自身を傷つけることも怖かったし、私たちを傷つけようとすることも怖かったのですが、先ほど言ったように周りに言うと村八分になるような感覚があり、必死になって家族じゅうが「近所の人にバレてはいけない」と隠している状況で。

 

今考えると私自身はヤングケアラーだったと思うんです。「家族の問題だから家族で解決しないといけない」と母から言われて。「これは人に言ってはいけない」とひとりで抱え込んでいました。今振り返ると、誰かに吐き出したい、聞いてほしいという思いがあったにもかかわらず、助けの求め方がわからないし、助けを求めてはいけないという苦しみがありました。

 

── 当時は今のようにネットで調べることもできません。まだ高校生ですから助けてくれる大人がいない状況はつらかったですね。

 

玉城さん:いろんな問題が起きて1年以上たったくらいのころ、父の兄弟だけには「お父さんの状況がよくない」と伝えましたが、それまでは私と母だけでなんとかせねばと。当時、妹はまだ中学に上がったばかりだったので、心配かけないように気をつけていました。学校に行っても友達に本当の話ができないので、まるで自分が嘘つきになった気持ちになるんですよね。本当の話がしたいんですが、話すことで「父や母や妹など大切な人を傷つけるんじゃ…」という恐怖もありましたので。私も心が疲弊して、学校に行っても保健室登校をしたりしていました。

 

── お父さんのご兄弟も助けに加わり、少しはホッとされたのではないでしょうか?

 

玉城さん:そうですね。そんな矢先、父が通院していた内科の先生が「自傷も他害もあるから強制的に入院させたほうがいい」と判断。父を精神科病院に連れて行くことを決めました。でも、父はただでさえ病院へ行くことを拒んでいたので、入院させるべく父の兄弟が連れて行こうとした際に、逃げ出してしまったんです。

 

その後、私が大学に入学し、大学のオリエンテーションがありました。オリエンテーション参加初日に学校に電話があり先生から「ご家庭で何かあったようなのでおうちに帰ってください」と、慌ててタクシーで帰ると父は病院で危篤状態でした。