「親子で姉妹」ソフトボールが繋いだ宇津木麗華さんとの出会い
── 元中国代表選手として活躍し、32歳で中国から日本に帰化した宇津木麗華さんの存在も、宇津木さんの人生に大きく影響しているように思います。「宇津木」の姓に改名し、監督と選手という立場でともにオリンピックを戦った麗華さんとの出会いについて教えてください。
宇津木さん:麗華が15歳のとき、日本代表として中国の交流試合に出ていた私のプレーを見て「小柄なのに、あんなに打てるなんてすごい」と、名前を覚えてくれたそうです。私がジュニア世界選手権のコーチになったころ、麗華は18歳で中国代表のキャプテン。麗華のチームの先輩が私の友人だったので、麗華たちが遠征で日本に来たときに、先輩から預かったお土産を渡しに来てくれたこともありました。
ほかにも、「バッティングを教えてほしい」と遠征先の私の部屋に訪れたり、個人賞を獲得したときのトロフィーを見せに来てくれたことも。当時、麗華は日本語ができなかったため、紙に書いてコミュニケーションを取っていましたが、あのころの真剣さは今でも記憶に残っています。
── 日本でプレーすることを憧れていた麗華さんが、日本への帰化を決断したとき、宇津木さんはどのように対応したのでしょうか。
宇津木さん:「日本に帰化してプレーしたい」という麗華を応援し、麗華の父親を説得するために北京におもむきました。「私が彼女の人生の責任を持つ。生活もソフトボールもすべて任せてほしい」と覚悟を伝え、承認を得ることに成功。
帰化後は「宇津木麗華」の名前に改めて、私の家で共同生活が始まりました。当時は、私の母が健在だったので、生活面ですごくよくめんどうを見てくれていました。次第に母と麗華の絆は強くなり、母が亡くなる前に遺言を託したのは、私ではなく麗華だったほど。母にとっても、麗華は特別な存在になっていたんだと思います。
── 麗華さんも現役引退後、日本代表監督に就きました。指導内容について、麗華さんにアドバイスされることもありましたか?
宇津木さん:麗華が私に助言を求めたときは、「麗華が考えた方法でやればいい」と伝えていました。私が「こうすべき」と指示を出してしまうと、「自分で判断して決める」ことができなくなってしまうと考えたからです。本人が決めたことであれば、たとえ結果がよくなくても、納得して次に繋げることができるはず。リーダーとはそうあるべきだと考えています。
── 現在、麗華さんとはどのようなご関係ですか?
宇津木さん:麗華と私は10歳しか年が違いませんが、時には親子であり、時には姉妹の関係でもあります。何かあれば互いに支え合える、大切な身内です。
PROFILE 宇津木妙子さん
うつぎ・たえこ。1953年、埼玉県で生まれる。1972年に日本リーグ1部のユニチカ垂井に入団後、日本代表選手として世界選手権に出場。1985年に現役を引退。ジュニア日本代表コーチを経て、実業団チーム・日立高崎の監督に就任し、1部リーグ優勝チームへと育てる。その後、日本代表監督に抜擢され、2000年のシドニー五輪では銀メダル、2004年アテネ五輪で銅メダルを獲得。2004年には、日本人では初めて国際ソフトボール連盟に指導者として殿堂入りを果たす。現在もソフトボール界の普及活動に尽力している。
取材・文/佐藤有香 写真提供/宇津木妙子