父と継父の死で「血の繋がりは関係ない」と確信して

── その説明会がきっかけで、不妊治療を続けることにさらに迷いが生じたのですね。

 

岩朝さん:はい。そういった現実を突きつけられて、不妊治療をやめるかどうか、自問自答しました。「私は産みたいのか」、それとも「育てたい」のか、どっちなのかって。そのときに思い浮かんだのが、実父と継父のことでした。

 

母はシングルマザーとして私を育ててくれ、50代で再婚したのですが、ある日、その再婚相手、つまり継父が病気で危篤状態になったんです。継父は「父親ってこんな存在なんだ」と胸が温かくなるような背中を見せてくれた、大切な存在でした。その継父がいつ亡くなるかわからない状況のときに、実の父の危篤を知らせる電話があったんです。その奥さまからは「お父さんが会いたがっている」と言われました。でも、私にとって実の父は、血はつながっていても、ほとんど交流も思い出もない人でした。結局、私は何年も一緒に暮らして、私に愛情を注いでくれた今の父と最期を一緒に過ごすことを選びました。実の父は、育ての父よりも3日早く他界したのですが、後悔はありませんでした。

 

このことがあって「親子に血縁は関係ない」と実感できたし、たとえ子どもと血がつながっていなくても「かわいい」と思える、心から愛せると思えました。「産みたい」じゃなくて「育てたい」、「親になりたい」と思ったんです。

里親になろうと決心するも夫は「なんでそんなに子どもなん?」

岩朝しのぶさん
2009年、不妊治療中に夫と和歌山へドライブしたときの一枚

── そのお気持ちをご主人に伝えたときはどんな反応でしたか?

 

岩朝さん:「里親になりたい」と相談した当初は全然、乗り気じゃなかったんです。「なんでそんなに子どもなん?ふたりで楽しく生きていこうよ」って。そりゃそうですよね。突然、里親なんて、夫からしたら青天のへきれきですから。でも、私は「子どものいない人生は考えられないから、申し訳ないけど離婚を想定した話し合いをしたい」と夫に申し出ました。そうしたら、「それなら話は別」と(笑)。話し合いを重ねた結果、夫も里親になることを決意してくれました。

 

── ご主人は本当に岩朝さんを大切に思われているんですね。

 

岩朝さん:ありがたいですね(笑)。ただ、私はそこで「治療をやめる」という決断はできませんでした。治療をやめてしまったら、自分の子は100%望めないという現実を受け入れることになる。その事実がつらくて、やめるとは言えなかったんです。「治療をお休みをしている間に里親になろう」という気持ちでした。

 

岩朝しのぶさんご夫婦
2010年、里親登録も終わり、治療を休憩するなかで香港へ旅行した岩朝さんご夫婦

── 自分の子を産み育てたいという思いを諦めきれない気持ちはよくわかります。

 

岩朝さん:でも、実際に里親になってみたらすごく楽しかったし、子どもがかわいかった。それに、不妊治療がすごくしんどかったのもあります。どんなに頑張っても実を結ばないという状況は、精神的にすごくつらかった。自分を見失っていた時期もありました。そんななかで「里親」という、自分が前向きに取り組めるものを見つけられた。水を得た魚のように、本来の自分のポジティブさを取り戻せて、前に進むことができました。

 

── それで不妊治療にひと区切りをつけると決めたんですね。

 

岩朝さん:そうです。当時、私は35歳。不妊治療の世界では、35歳は「ギリギリだね」って言われるけれど、里親の世界では「最年少」でした(笑)。

 

不妊治療は35歳を超えると妊娠率が低くなるといわれています。これは私が実際に経験して感じたことですが、もし子どもが本当にほしいなら、35歳を超えた段階で里親制度を検討してほしい。40歳までに里親制度の門をたたいておいたほうがいいと思います。40歳を過ぎると特別養子縁組や里親へのハードルが高くなっていくからです。多くの人が思っているよりも、もっと早めの決断が必要だと感じています。

 

PROFILE 岩朝しのぶさん

いわさ・しのぶ。1973年、宮城県生まれ。先天性の病気によりこれまで17回の手術を経験し、シングルマザーの母親に支えられ幼少期を過ごす。25歳で起業後、広告代理店業の代表に就任。不妊治療を経て養育里親となり、現在も現役里親として子どもを養育している。認定NPO法人日本こども支援協会 代表理事 一般社団法人明日へのチカラの代表理事 「ドコデモこども食堂」代表。

 

取材・文/高梨真紀 写真提供/岩朝しのぶ