1972年、沖縄の本土復帰の1週間後に生まれ、「復帰っ子」と呼ばれていたというお笑いコンビ・ガレッジセールのゴリさん。 6歳のころ大阪の親戚に預けられ、家族がバラバラに暮らした当時は寂しい思いをしたといいます。(全4回中の1回)

40歳を過ぎて腑に落ちた「復帰っ子」として生まれた意味

ガレッジセール・ゴリさん

── 沖縄の本土復帰から1週間後に生まれたことについて、子どものころはどんなふうに感じていたのでしょうか。

 

ゴリさん:何のことかよくわかっていなかったですね。僕たち1972年生まれの子どもたちは「復帰っ子」と呼ばれていて。小学校に入学したときには、新聞やテレビで「復帰っ子入学」と見出しがおどり、成人式には「復帰っ子が成人」などと言われて、節目でニュースになっていました。近所のおばあちゃんたちからも、「あんたたち72年生まれ?復帰っ子やね」なんて言われて。沖縄の歴史は学校の授業で習ってはいたけど、まだ子どもでしたから、「遊びたい」「女の子にモテたい」「早く沖縄を出たい」って、人生をどうハッピーに生きるかってことを一生懸命考えていたと思います。

 

── 子どもはそんな感じですよね(笑)。大人たちから「復帰っ子」と呼ばれた意味を理解されたのはいつごろですか?

 

ゴリさん:40歳を過ぎたあたりで、「人生の折り返し地点にきたな」って思うようになって。「なぜ自分は芸能界で仕事ができているのか」と考えたときに、「沖縄出身だから、という理由が大きいよな」と強く思ったんです。

 

「復帰っ子」という言葉には、沖縄県民の願いや闘いの歴史が込められていて。復帰に関しても県民のとまどいや反対の思いもあったことも学んで、少しずつ理解できるようになりました。沖縄が大きく揺れ動いた時代に生まれた自分とも向き合うようになり、「俺は沖縄にすごく助けられてきたから、これからは沖縄に感謝を込めて還元しよう」と決めたんです。

 

──「復帰っ子」と呼ばれていた理由が理解できて、沖縄への想いも強くなったのですね。

 

ゴリさん:はい。だから、40歳を過ぎてから沖縄を舞台にした映画を毎年撮るようになりました。2014年には(所属している)吉本興業にお願いして「おきなわ新喜劇」という舞台を旗揚げして、沖縄に貢献できるような仕事を意識して続けるようになりました。

月1回は兄弟3人で集合「子ども時代を取り戻したいのかも」

── 実家のご家族について教えてください。印象的な子どものころの思い出はありますか?

 

ゴリさん:僕は3人兄弟の末っ子なんですけど、僕が6歳のころから、兄弟全員が親戚に預けられて育ったんです。だから、あまり家族の思い出がないんですよね。僕と次男とで家の近所の公園で遊んでいたことは覚えているんですけど、その当時、長男は全寮制の中学に行っていたので、3人で遊んだ記憶が少なくて。

 

幼少期のガレッジセール・ゴリさん
幼少期のゴリさん。手足がスラリとしてすでにイケメン!

子どものころの家族の思い出がほとんどないぶん、大人になってから会うようになりました。特に長男と次男が沖縄で暮らすようになってからは、月1回、兄弟3人で集まるのがすっかり定着して。僕がレギュラー番組の仕事で沖縄に行くタイミングに合わせて、次男が中心になって準備してくれて、みんなでご飯を食べています。ただ、なにせ今まで一緒に過ごした時間が短いので、会話がぎこちなかったりするんですけどね(笑)。

 

今年のお盆も、みんなで鍋をつつきました。両親の仏壇がある長男の家に集まって、あの世から帰ってくる両親を迎えました。3日間、長男の家で食事をした後、3日目の夜に両親をあの世に送り返すという沖縄の風習にならって見送りました。