暑い日も雨の日も毎日、園へ自転車で子どもを送迎する。そんな日常から自転車が好きになり、50歳でプロの競輪選手になった母親がいます。合理的?大胆?高松美代子さんに、当時の思いを伺いました。(全2回中の1回)

次女のときは往復32キロ!ママチャリで子どもを送迎

高松美代子さん

── 高松さんはもともと自転車に乗るのがお好きだったのでしょうか?

 

高松さん:それほど興味を持っていたわけではないんです。運動は好きで、小学生のころから本格的に水泳に取り組んでいました。23歳で結婚後、出身地の大阪から上京し、娘を2人授かりました。自宅から約5キロ離れたところに自然豊かな幼稚園があり、長女を通わせることに。当時は電動自転車がまだなく、電車やバスだと遠回りになるので、ママチャリで送迎しました。行き帰りで2往復するので、毎日約20キロ!次女のときはもっと大変でした。自宅から約8キロ離れている幼稚園に通っていたので、送迎で2往復すると、1日合計32キロも自転車をこいでいたんです。

 

── 自転車での送迎だけで相当な筋トレになりますね。

 

高松さん:本当にそう思います。上京してから水泳コーチの仕事を始めました。あるとき、たまたまプールで顔を合わせた男性から、「あなたは向いていると思う」と、いきなりトライアスロンを勧められたんです。たしかに以前から、トライアスロンにはあこがれていて。自転車とマラソンの練習を始め、2000年に37歳で宮古島の大会に出場したところ、とても達成感がありました。

 

それがきっかけとなり、マラソン、水泳、自転車の大会に出場してみました。すると水泳やマラソンにくらべ、競技人口が少ない自転車の大会ではいい成績が残せました。表彰台にのぼるのが快感だったうえに、優勝賞品もたくさんもらえて家族が喜んでくれて。そこで「自転車一本に絞って、たくさん勝とう」と思うようになったんです。夫も自転車が好きだったから、一緒に走るようになりました。あるとき自転車仲間から「東京から新潟の糸魚川まで300キロ走るレースがあるよ」と言われて、思いきって出場することにしました。

 

トライアスロンを始めたころの高松美代子さん
あこがれのトライアスロンに取り組み始めたころの様子

当時は義母と同居していて、私が食事作りを担当していたんです。糸魚川のレースに出場する際は、出発前夜に家を空けるあいだの料理の作り置きをしていました。準備や家事に追われ、寝ないままレースに出たんです。レース途中、睡魔に襲われて15~20分ほど地べたに寝転がり仮眠をとりました。時間ロスにもなったのに、約11時間でゴールしました。なんと女子の部で1位になったんですよ!それでさらに自転車にのめりこんでいきました。

「年齢制限がない」プロになろうと50歳を前に受験

── プロをめざしたのはどんな経緯がありましたか?

 

高松さん:さまざまな大会に参加し、長距離レースは負け知らずでした。いろんな大会で何連覇もしていたんです。でも、15キロ、20キロのレースは最後の200メートルの勝負「スプリント」でいつも競り負けていました。どうしたら勝てるのかと考えていると、自宅近くの川崎競輪場で走り方を教えてくれる講座があると聞き、電話で問い合わせてみました。すると、その講座を受けるのはプロをめざす若い人ばかり。私は「プロをめざしている子どもにつき添っているお母さん」と思われていたようです。それでも講座の開催日時を聞き、競輪場に行ったところ、その日に限って時間変更があり、私が到着したときには誰もいませんでした。

 

「あれっ?」と思っていたら、ある競輪選手が声をかけてくれたんです。「私はレースに参加していて、どうしても勝ちたいんです」と話すと、「そんなに熱意があるのなら」と練習を見てくれることになりました。丁寧に教えてくれたおかげで、もともと得意だった長距離はもちろん、苦手だったスプリントでもおもしろいように勝てたんです。どの大会でも優勝するのが当たり前という感じでしたが、40代半ばで出場した自転車レースで15歳の選手に負けてしまいました。もう世代交代かもしれないと焦り、もっと練習しなくてはと思いました。でも、当時は水泳コーチから転職し、小学校の臨時教員として働き、家事にも時間がとられていたから、練習の時間がなかなかとれなくて。

 

ガールズケイリンでプロデビューした高松美代子さん
ガールズケイリンのプロ1期生として女子選手の最高齢50歳でデビュー

ちょうどそのころ、1964年に廃止された女性の競輪競技が「ガールズケイリン」として復活することを知りました。プロ選手養成所の募集要項には、年齢制限の上限がなかったんです。「絶対に行きたい!」と思ったものの、そのとき私はすでに48歳。内心、難しいだろうと思っていました。でも。家族は「合否にはこだわらず、とりあえず受けてみたら?」と背中を押してくれて。受験したら、まさかの合格だったんです。10か月の寮生活を送ることになるため悩みましたが、娘たちは成人を迎え、手が離れていました。せっかくのチャンスをつかもうと、2011年、49歳でプロ養成所に入学しました。