両耳の鼓膜が破れて
天功さん:2枚目のレコードを出したところで、初代の引田天功が、心筋梗塞で倒れてしまったんです。二代目をどうするかという問題になって、後援会の皆さんから、「女の子でもできるからやりなさい」と言われて。一度はお断りしたんですけど、「使命だと思って頑張ってやりなさい」と説得され、テレビ局のプロデューサーたちからも、「女の子のほうが話題になるから」と。まるでトロッコにポーンと乗っけられ、そのままグイッと押されたようなカタチで、1980年に二代目を引き継ぐことになりました。
マジックなんて初めてですから、とにかく覚えることがたくさん。中国やエジプトなど、何千年ものマジックの歴史から、その仕組みまですべて覚えなきゃいけない。ものすごい量の本を毎日読み、勉強漬けでした。
これまで何度も危険な目にあっていますが、最初にそれを経験したのが、襲名前に挑んだ富士山での脱出ショーです。初代の引田天功さんが、富士山での大脱出を日本テレビでやる予定だったのですが、倒れてしまい、気圧の高い富士山に登れない。それまでマジックやマジシャンの存在を知らなかったのに、急にテレビ局から「女の子のほうが、視聴率が取れるから」と言われ、同じ事務所の私が代役を務めることになったんです。
── 下手をしたら命に危険が及ぶような危険なショーですよね。怖くなかったですか?
天功さん:もちろん怖かったですよ。でも、「一度引き受けたことなのだから、大人としてちゃんとやりきりなさい」と周りの大人たちから説得されて。ショーを成功させるために、ものすごい人数の大人たちが動いているのを見て、私ひとりのわがままは通せないなと思いました。それに、「18歳までしか生きられないのなら」という開き直りのような気持ちもありましたね。
── 当時はまだ16歳くらいですよね?考え方がすごく大人びていらしたのですね。
天功さん:本当は16歳だったのですが、大爆破で火を使うので、消防法違反になっちゃうから、「19歳ということにしてください」と言われました。今だとありえない話ですね(笑)。しかも当時は、命綱も何もなしで、はしごにぶら下がってヘリコプターから登場するというオープニング。どうすればいいかわからず、「どうやってはしごにつかまっていればいいんですか?」と聞いたら、「下を見たらダメ、絶対怖くなるから。それよりも、地平線の右側を見て、次に左側を見て、最後に上を見る!」とだけ教えられて。初代がそれをやっていたので、代役の私も同じことをしなくてはダメだということで、必死でやりました。
ですが、ショーの最中に、大爆発で火の玉が私に向かって落っこちてきて、肩に大怪我を負いました。今でも傷が残っています。顔のすぐそばで爆発したので、両耳の鼓膜も破れてしまって。後日、アメリカの病院で鼓膜をはる手術をして、ようやく耳が聞こえるようになりました。しかも、撮影後、熱が出て大変だったのですが、「私が病院に行ったことが知られるとTVで放映できなくなる」と言われ、我慢しました。今では考えられないようなことが、いっぱいあった時代でしたね。
PROFILE プリンセス天功(引田天功)
ぷりんせす・てんこう(ひきた・てんこう)。イリュージョニスト。日本ではアイドル歌手、女優としてデビュー。1980年に二代目・引田天功を襲名。世界的には、イリュージョニストPRINCESS TENKO(プリンセス天功)のステージネームで知られる。1990年に、女性として初の快挙となる米国「マジシャン・オブ・ザ・イヤー」受賞。以降、世界的なイリュージュニストとして活躍を続ける。
取材・文/西尾英子 写真提供/プリンセス天功