家族3人で竹富島へ初めての旅行
── 赤ちゃんのお世話はどうされていたのですか。
清水さん:周りのサポートがなければできませんでした。僕の母や姉、妻の家族がサポートしてくれていたから、僕は仕事をすることができましたし、病室で妻と息子と3人の時間を過ごすことができました。
息子が生後2か月を迎えた年末年始に、3人で旅行に行くことができたんです。行き先は、僕が取材で訪れたことのある竹富島。「3人で旅行ができたらいいね」というのが、いつからか僕たちの目標になっていて、抗がん剤治療の副作用で高熱や口内炎が出て、直前まで体調はよくなかったのですが、「行きたいな」と言う妻の言葉に、主治医の先生が多くのアドバイスをしてくださり「行っておいで」と背中を押してくれました。
いま思うと、妻は旅行をしたかったというより、きっと、母親として「普通」のことがしたかったんだと思います。出発する空港でベビーカーを押している妻の写真があります。うれしそうな表情をしているし、母親として誇らしい表情もしている。出産後、1週間で転移がわかってしまって、妻がゆっくりベビーカーを押すことができたのはそのときが初めて。「ごめんね、まだまだ子育てできていないよね」と妻はいつも話していたので、3人で出かけることができたことが本当にうれしかったんだと思います。
骨転移もあり、立つのも歩くのもしんどい状況だったのに、竹富島では息子を抱っこして笑顔で歩いてくれました。笑顔の写真が家にはたくさんあります。あのとき、妻が笑顔で過ごしてくれたことは、今の僕たちの大きな救いになっています。
── 病状が進み、つらい決断をされた場面もあったのでは。
清水さん:決めたくなくても決めなくちゃいけない場面がたくさんありました。1月の終わりころ「もう抗がん剤は打てない」と診断され、2月初め、妻が初めて「しんどい」「痛い」という言葉を口にしました。痛みを取るには、医療用麻薬とステロイドを打つしかない。でも、投与すると意識がなくなってしまうこともあるかもしれないとの説明を受けました。「どうしますか、痛みを取ってあげますか」。僕が決断しなければいけない。妻にも聞けばよかったのかもしれないですが、隣で苦しそうにしている妻に僕は聞くことができなかった。
痛みを取ってあげる選択をしましたが、もしかしたら、妻は「まだまだ頑張れる」と思っていたかもしれないですよね。いまでも何が正解だったのかはわかりません。僕はこれからもこうやって「わからない」ということを言い続けていくんだと思います。でも、いつか、自分たちが選んだ道を正解にしていければと思っています。
体重が20キロ減り、テレビ局を退社
── 仕事と育児の両立はどのようにされていたのですか。
清水さん:番組には、妻が亡くなり2週間ほどで復帰させてもらいました。会社の理解はありがたく「無理はしなくていい」と話してくださっていました。ただ、自分のなかで「こうありたい」「こうしなければ」という思いが強かった。朝8時に出社して、午後4時47分からの番組に出演後は反省会、夜8時に帰宅するという生活でした。いま思うと「弱い自分を見せたくない」と自分で勝手に変な鎧をつけてしまい、僕なりのキャスター像が、逆に視聴者の皆様や仲間にも心配をかけてしまっていたように思います。
父親としても、自分で勝手に空回りしていました。ひとりでできるわけなんてないのに。当然のことですが、仕事も子育ても100%で向き合いたい。気がついたら体重が20キロも減っていて。あるとき帰宅して、当時3歳だった息子を抱き上げたら、ふらついてしまったんです。そのとき「この姿を見て、誰が喜ぶんだろう」と。このままじゃいけない。あの時の僕の心は普通ではなかったと思います。多くの方が協力してくださっているにも関わらず、わがままを言わせてもらって、いったん、テレビの世界から距離を置く選択をしました。
誰のせいでもない。勝手に自分がいっぱいいっぱいになっていました。父親としてもキャスターとしても。でも、いま、できないことは「できない」「助けて」と言えるようになった自分がいます。自分の弱さを受け入れられているカッコ悪い自分がいます。
PROFILE 清水 健さん
しみず・けん。元読売テレビアナウンサー。夕方の報道番組のメインキャスターを務め、現在はフリーアナウンサーとして活動。著書に『112日間のママ』(小学館)ほか。
取材・文/林優子 写真提供/清水健