うんちを壁に塗ったり食べたりしたことも

川崎病で入院し退院が決まったときの大和さん

── 柔和な笑顔が印象的な大和さんですが、ご本人の性格や苦労したことを聞かせてください。

 

永里さん:性格はめちゃくちゃ穏やかだと思います。鳥取の先生も「穏やかだね」と言ってくれていましたし、落ち着いているときはニコニコしています。ただ、寝つきが悪くてなかなか寝なかったり、寝たと思っても夜中1時や2時に目が覚めたり、朝までずっと起きていたり。産まれたばかりの次女の授乳もあって、妻は常に寝不足でした。自分でトイレができないので、うんちをしたときにオムツに手を突っ込んでうんちを壁にペタペタと塗ったり、食べたりもしていたんです。表情を変えないので気づかないこともあって、「あっ!くさい!もしかしてうんちした!?」みたいな感じで、急いで片づけたりオムツを替えたりしていました。

 

障がいの特性以外のところでも、体が弱かったので周期性嘔吐症になっていて。ちょっとでも熱が出たり風邪を引いたりすると、1日中、嘔吐が止まらなくなってしまうんです。食べるとまた吐いちゃうので、基本的には点滴をしてもらうしかないんですけど、病院に行ってもじっと座っていられないし…。病院にかかること自体が、すごく苦労しました。

 

── 周期性嘔吐症は、いつごろまで続いたのでしょうか?

 

永里さん:お医者さんからは「小学校3~4年生ごろになったらたぶん治まると思うよ」と言われていて。体調を少し崩しても自分で回復できる体力がついてきたからなのか、本当にそのころに落ち着いてきましたね。大和は言葉が話せないので、苦しいときでも自分で「苦しい」と言えなくて。本当に治まってよかったと思います。

単身赴任中に大和さんが川崎病に

── ガイナーレ鳥取で約1年間プレーしたのち、タイのクラブチームに移籍されました。ご家族は鳥取に残り、奥さまはワンオペという形だったのでしょうか?

 

永里さん:はい。ぼくはタイに単身赴任をしたので、妻はひとりで本当に大変だったと思います。夫婦共に実家が神奈川県なので、妻と子どもたちで地元に帰るということも考えたんです。でもいろいろと調べてみると、行政のサービスって地域によって違うじゃないですか。鳥取は障がいを持つ当事者や家族への対応がすごく手厚かったので、長女も小学校に行くタイミングだったし、産まれたばかりの次女もいたし、今は大和の環境を変えないことが一番だという結論に至って、家族は鳥取に残ることになりました。ぼくが日本を離れてからは妻のお母さんが鳥取に来て一緒に住んでくれる予定だったんですけど、お母さんが来てくれるまでの1年4か月の間にもいろいろなことがありました。

 

── 奥さまは、どのようなことが特に大変だったとおっしゃっていましたか?

 

永里さん:くにゃくにゃして長距離を歩けない大和と0歳の次女を連れて出かけること、外出先でどこかに行こうとすること、ご飯の準備やお風呂のときに何をするかわからない大和から目が離せなくて毎日試行錯誤を重ねていたことなどが、妻は大変だったようです。

 

実は大和が3歳10か月のとき、川崎病にもなったんです。数日間高熱が出て、周期性嘔吐症で3日目に脱水症状になって入院したんですけど、計5日間、40度近い高熱が続いて。5日目の朝に発疹が出て、川崎病という診断を受けました。治療で快方に向かうことが多いんですけど、まれに心筋に炎症が生じることがあって、その“まれ”なことが大和に起きてしまって。心臓の動きがゆっくりになって、人工心肺の話も出ました。試合前日に「きょうがやま場だ」と聞いて、タイにいたぼくは寝ないで試合に臨んだことをすごく覚えています。退院後は定期的に通院して、大和が8歳のときに完治しました。治療が早かったので、奇跡的に後遺症がなく過ごせています。

 

いろいろとすごく大変だったんですけど、妻のお母さんやぼくの母、ガイナーレ鳥取のチームメイトや後輩の家族、児童発達支援センターのママ友、長女が通っていた小学校のママ友など、いろいろな方々がたくさん助けてくれて、ぼくが帰国するまでの生活を乗り越えることができました。

 

PROFILE 永里源気さん

1985年12月16日生まれ。湘南ベルマーレユースを経てトップチームに昇格。その後、東京ヴェルディ、アビスパ福岡、ヴァンフォーレ甲府などで活躍した。22歳のときに結婚し、4児の父に。現在は地元・神奈川県厚木市で療育特化型「放課後等デイサービスAthletic club ハートフル」を開設しているほか、少年サッカーチームやスクールなども運営している。元女子サッカー日本代表の永里優季さん、永里亜紗乃さんは実妹。

 

取材・文/長田莉沙 写真提供/永里源気、湘南ベルマーレ