2021年の東京オリンピック開催時には、パラリンピックのNHK障害者キャスター・リポーターを務めた千葉絵里菜さん(29)。2歳で脳性まひと診断されてから、車椅子での生活を送ってきました。(全3回中の1回)
生後1か月で難病が発覚し、普段泣かない父が車の中で号泣
── 1994年11月、北海道帯広市生まれの千葉さん。生まれてからすぐに難病が発覚したそうですね。
千葉さん:生後1か月で、胆道閉鎖症にかかっていることがわかったそうです。胆汁の通り道が詰まっているため、放っておくと肝臓の組織が破壊され命に関わると。1万人に1人くらいの割合でしか発症しない難病です。「助かるには生体肝移植しかない」と北海道の病院で言われましたが、当時、道内には難病の子どもの生体肝移植ができる病院がなく…。京都大学医学部附属病院を紹介してもらい、母の肝臓を私に移植する手術を受けました。
── 当時のご両親のお気持ちを聞かれたことはありますか?
千葉さん:胆道閉鎖症と診断されて自宅に帰るとき、普段は泣かない父が「ちょっと待って」と言って、車の中で号泣したと聞きました。
──「胆道閉鎖症かもしれない」と、ご家族が気づいたのは何か症状があったのでしょうか?
千葉さん:うんちの色が白っぽかったそうです。現在の母子手帳には、胆道閉鎖症などの病気を早期発見するためにうんちの色が何色かチェックする欄がありますが、当時は胆道閉鎖症がすごく珍しい病気だったこともあり、母子手帳にはそういった記載がなかったそうです。でも、白っぽいうんちはさすがにおかしいと母が感じ、すぐに病院へ連れていったと聞きました。
※母子手帳の「便色チャート」は、2012年から母子健康手帳に掲載することが義務づけられています。
脳性まひで2歳から車椅子生活に
── その後、脳性まひであることもわかったのですか?
千葉さん:はい。手術によって胆道閉鎖症は治療できたものの、2歳のころに発達の遅さが気になった母が病院へ行き、脳性まひと診断されたそうです。2歳でも歩けなくて、手術の影響があるとしてもちょっとおかしいかな、という感じだったのではないでしょうか。当時はバギーと呼ばれる小児用の車椅子に乗って移動していました。周囲にバギーに乗っている子どもがいなかったので、散歩や買い物のときは、じろじろ見られたそうです。
幼いころの車椅子は手動で人に押してもらわないと動けず、小学校へは友達と一緒に通学していたのですが、家族やボランティアさんが必ず一緒でした。でも、小学校4年生のときに電動車椅子に変わり、自分で移動できるようになったんです。家族も誰も同行せず、自分の意思で移動しながら友達と登校できるのはこんなにも素晴らしいことなんだ、と世界が広がったことを覚えています。
── 通常学級に通われるなか、手動の車椅子時代は、学校でもずっとお母さまが付き添っていらっしゃったのでしょうか。
千葉さん:そうですね。母は授業中もずっと隣にいて、あれこれお世話してくれていたので、自分の時間がなく、私が小学2年生のころに、ストレスからか顔面麻痺になってしまいました。小学3年生になってからは帯広市が介助員を付けてくれるようになり、板書もしてくれたので、母の付き添いが必要なくなりました。母と1日中ずっと一緒だったころは、母が学校のことをすべてわかっているから、帰宅して「今日こうだったよ」という会話もないし、「いってらっしゃい」も言われたことがなかったんです。でも、介助員さんがつくようになってからは、「いってらっしゃい」と送り出され、帰宅後に学校の話をできるのが嬉しかったです。
介助員さんや先生との出会いで文字を書く楽しさを知った
── 板書のサポートは、手が不自由で文字を書くのが難しかったためですか?
千葉さん:そうです。でも、小学6年生のときに出会った介助員さんが「卒業文集は自分の字で書いてみない?」と言ってくれたんです。大きな紙に大きな字で書いて、それを縮小して文集に載せてくれました。そこで初めて文字を書く楽しさに目覚めました。それまでも文字を書いていなかったわけではないですが、そこまで自分の手が動くとは信じてなかった部分があったんです。
自分で文字を一生懸命書くようになったのは、中学1年生の担任の先生の影響も大きいです。中学でも通常学級に通っていたのですが、「普通の高校に入りたかったら自分で文字を書かないとダメだよ」と厳しく言われました。いま思えば、ほかの生徒と同等に扱おうとしてくださったんだと思います。そこでハッとして、「あいうえお」の表からもう一度やり直しました。書き終わるまでに時間はかかりますが、中学校を卒業するまでに漢字もひと通り書けるようになりました。そのふたりと出会わなければ、いまの自分はなかったと思います。