仕事が絶好調の30代後半、先天性障がいのある次男が生まれました。限られた時間のなかで懸命に生きる姿を見て、稲川さんも変わりました。やがて、その思いを伝えるようになりました。(全4回中の4回)

難病の次男は「26歳まで頑張った」

障がい者アーティスト発掘のための「稲川芸術祭」での最優秀作品
障がい者アーティスト発掘のための「稲川芸術祭」での最優秀作品

── 先天性の障がいがあった息子さんのことを聞かせてください。

 

稲川さん:次男の由輝(ゆうき)は、頭の骨に変形が起きるクルーゾン症候群という先天性の難病でした。生まれてすぐ、頭蓋骨の手術を何度も受けましたし、体じゅうが管につながっていることもありました。でも、ずっとニコニコしていました。ふざけたりしていたし、自分の好きな人は知っていました。長男から聞いたのですが、運動会でも黄色いゼッケンをつけて一生懸命走っていたし、鉄棒にも挑戦していたそうです。なんでも「できることはやらせよう」という方針ですね。私ならたぶんできなかっただろうけど、女房だからできたんでしょうね。私は何にもしてあげられませんでした。

 

── 最近は、お子さんの障がいなどについて公表する著名人が増えていますが、30年以上前はまた違ったかと思います。

 

稲川さん:私の場合は、隠しませんでした。わざわざ言うことでもないですが、隠すことではないですから。聞かれたら、「そうですよ」とふつうに言っていました。でも、あることないことを書こうとしたメディアがあり、ずいぶん無礼な人もいました。入院している息子の写真を撮りたいとやってきて、医師が怒ったこともあります。人の悲しみや苦しみなんか、知ったこっちゃない人が多かったです。

 

── 家族にも大きな試練だったと思います。

 

稲川さん:由輝は成長にあわせて、何度も手術をしなければなりませんでした。女房は頭の手術を見て、大変なショックを受けたでしょう。結局、女房ががっちり面倒を見ていたから私は入り込めなかったです。手術入院中くらいは女房と長男に休んでもらおうと、いろいろ計画もしたんですが…。とにかく稼がなきゃと、私は仕事ばかりしていました。でも、一番苦労したのは、家族ではなくまぎれもなく本人です。

 

── その後、息子さんは?

 

稲川さん: 医師からは最初、この障がいは中学生くらいまで生きられないと言われました。でも、息子は26歳までがんばって生きてくれました。そして、一生懸命生きて、まわりの人にも愛されていました。息子が亡くなったとき、通っていた施設の若い先生が来てくれたのですが、その先生は本気で泣いていました。「あぁ、短い人生だったかもしれないけど、この先生は本当に息子を愛してくれていたんだなぁ」と、嬉しさがこみ上げてきましたよ。

仕事が絶好調だった30代後半「生まれた次男が教えてくれたこと」

── 由輝さんと出会って、稲川さんの人生観はどのように変化しましたか?

 

稲川さん:由輝が生まれたのは、私が37~38歳のころ。いろんなことに挑戦して、忙しく仕事をしていた時期です。家を買って、仕事が楽しくて、絶好調ですべてうまくいくと思っていました。でも、由輝が生まれて、これはしっかりしなきゃと思いました。女房が落ち込むとつらいし、長男や家族全員に関係することですから。由輝はたくさんのことを教えてくれたので、私は人として少しは成長しました。「ありがとう」と言いたいです。由輝に会わなければ、私は人の苦しみを思いやることなく、人への情愛を感じることなく、ラクして生きてきたかもしれないです。

 

── 由輝さんとの思い出が、今も障がい者支援活動を続ける原動力になっているんでしょうね。

 

稲川さん:いろんな企業で講演をしました。私と子どもとの出会いや感じたことを話して、最後は私も聞いている方々も泣いちゃいます。泣かせるつもりは毛頭ないのですが、一生懸命生きる姿が見えると、みなさん我慢できないみたいです。私はどこかで息子に対して引け目を感じているんですよ。いい悪いでなく、ふつうに元気に育ってくれればよかったけど、そうできなくて「ごめんね」という気持ちです。

 

── テレビやラジオで広く活躍されている時期に重なりましたが、タレント活動をしているときの自分と父親としての自分のバランスはどのようにとっていましたか?

 

稲川さん:とくに違いは意識しませんでした。もともとタレントって、個人・プライベートがないでしょう。これは、いいことも悪いこともあります。でも、どこへ行っても顔がわかるのは、売れているということです。仕事がなかったら子どもを助けられませんから。