1年の1/3しかない一緒にいられない新婚生活
── 交際からご結婚までがわりと早かったと伺いました。
森さん:そうですね。「30歳までに結婚したい」と思っていたので、交際1年くらいで結婚しました。夫がちょうど厄年だったり、タイミング的に「いまじゃないほうが…」と言われましたが、30歳になる誕生日の3日くらい前に滑り込みで役所に婚姻届を提出しました。
そのときちょうど私は、仕事で各地のスキー場を転々としていたので、夫に一人で婚姻届を提出しに行ってもらいました。今ふりかえると、本当に申し訳ないです(笑)。
── 結婚生活はいかがでしたか?
森さん:交際中と変わらず、1年の1/3しか会えない生活を送っていました。スキーの仕事をしていると、春から秋まではオフシーズンにあたりますが、各地でイベントやセミナー、講演会などをこなし、11月〜翌年の5月ころまでは国内外の雪山を転々とします。一年を通して自宅を空けがちなので、仕事への理解がないとプロスキーヤーとの結婚は難しいと言われます。一般的なご家庭も同じですが、もし子どもができてもほぼワンオペで育児をすることになります。私ははじめから「そういうもの」だと思っていたので、夫が自宅にあまりいないことに対しては、つらいと思ったことはほぼありませんでした。
── 結婚後、ご自身のお仕事は?
森さん:当時の女性スキーヤーは、結婚したらスキー(仕事)をやめるのが一般的でしたが、私は続けていました。結婚3年目で妊娠したのですが、そのときも「出産してから、まずは育児に集中してある程度大きくなったら仕事に戻ろう」と考えていました。
出産した娘の顔が紫色「大学病院に搬送された娘に…」
── 娘の未瑠加(みるか)さんが生まれたときのことは覚えていますか?
森さん:もちろん、いまでも鮮明に思い出せます。出産予定日の10日後に緊急帝王切開で出産したのですが、生まれた瞬間にまわりがザワつきだしました。背中を叩いても泣かなくて。意識が朦朧とする中で、一瞬だけ見た娘は紫色をしていました。手術後、看護師さんに娘はどうしているかと聞いたら、「もうちょっとしたら会えますよ」と曖昧な返事をされて。手術室を出ると、母は泣いていて、父と主人は呆然としていました。
その後、娘はすぐに別の部屋に移されて心臓マッサージをされました。まったく状況が理解できなかったので、夫に説明をお願いしたのですが、答えてはくれないまま、私は病室に戻されて、一方の娘は大学病院に搬送されることになりました。もうワケがわからなくてパニックになり、娘を搬送してくれた救急隊員の方を叩きながら「絶対に娘を助けてくださいね!」と叫んでいました。
── 出産後すぐにお子さんと離されるのはつらいですね。未瑠加さんとちゃんと会えたのはいつですか?
森さん:翌日です。帝王切開だったので、動いてはいけなかったのですが主治医に頼み込んで娘の搬送先の大学病院に会いに行きました。前夜に夫から「心臓病の疑いがある」と聞いていたので、「とにかくいま会いに行かなくちゃ」という気持ちでいっぱいでした。娘は、自分で呼吸することが難しく人工呼吸器をつけていました。また、手足を動かすことも負担になるそうで筋弛緩剤であえて動かないようにしていました。ほかにも全身にいろいろな点滴を打っていました。
ずーっと寝ているような状態で目を開けないので、「この子は生きているのだろうか?目を覚ますのだろうか?」と思いながら、毎日、娘に会いに行っていました。入院から1週間後に、「おそらく肺高血圧症だろう」といわれました。このころ、肺高血圧症は珍しい病気で、さらに生まれながらにしてこの病気にかかることはもっと珍しくて、医師もそうとう頭をひねったようでした。あまり前例がない病気のためにわからないことも多くて、「余命5年」ともいわれました。
見守ることしかできないなかで、はじめて目を開けてくれたのは生後1か月が経ったときです。このころになると、筋弛緩剤の投与が必要なくなっていました。はじめて目を開けた顔を見て、「この子は生きてるんだ」と実感できました。
PROFILE 森 幸さん
もり・ゆき。東京都出身。アルペンスキー元日本代表。元全日本スキーデモンストレーター。 東京都スキー連盟副会長、日本障害者全日本スキー連盟理事を経て、現在は全日本スキー連盟理事・日本トライアスロン連合理事などを務めるかたわら、青山学院大学の体育会スキー部のコーチにも注力している。国の指定難病である肺高血圧症を抱える、娘の未瑠加(みるか)さんとの日常の一コマをインスタグラムに投稿している。
取材・文/安倍川モチ子 画像提供/森幸