29歳で子宮頸がんが発覚。手術により回復に向かうなかで職場復帰を果たした水田悠子さんは以前のようなやる気を取り戻せずにいました。しかし、社内ベンチャー制度に応募し、自分と同じ悩みを抱えた人向けのストッキング開発に着手。その思いを聞きました。(全3回中の2回)

専用の弾性ストッキングの着脱に20分かけて出社する日々

(株)ポーラで商品企画を担当していた29歳の時に子宮頸がんに罹患し、手術後も後遺症のリンパ浮腫に悩まされた水田さん。リンパ浮腫は治ることはなく、進行していくものなので、放置すると脚が丸太のようにふくれ、歩行も困難になります。

 

「リンパ浮腫の手術を受けても、毎日、分厚い弾性ストッキングを着用しなければなりません。リンパ浮腫のためおしゃれが制限されるうえ、着脱に20分近くかかる生活に愕然としました」

 

さらに、子宮頸がんの治療で勤務先の(株)ポーラを1年3か月間休職していたため、職場復帰にも不安を抱えていました。

 

「がんになる前は仕事に燃えていたのですが、復帰時は仕事にまったく自信がなくなっていました。病気が判明してすぐに手術が必要だったので、ろくに引継ぎもできずに戦線離脱してしまい、まわりにどれだけ迷惑をかけたんだろうって。みんな、すごく忙しいのを知っていたので、余計に落ち込みました。そんなところに、やる気満々で戻れないじゃないですか」

 

当時の上司に、「昔みたいにバリバリ働く自信がない」と相談すると、「以前担当していた商品企画以外に、資材の調達やコスト管理をする管理系のスキルを身につけてくれたら、部門としてとても心強いから、その道にチャレンジして復帰してみないか」と提案を受けました。この仕事ならばチームでできるうえ、体調の変化などがあっても互いに仕事をフォローしあえるということもあり、水田さんは管理チームに復帰しました。しかし、復帰しても、しばらく心は晴れませんでした。

 

「社内にはがん経験者がいて、がんにかかったこと自体は話しやすい雰囲気だったんです。でも、美意識の高い、憧れの女性たちが多い職場で、自分は分厚い弾性ストッキングを履き続けなければならない現実に落ち込みました」

 

その後も心がすっきりしない状態が3〜4年続いたそうです。

 

「私の病気について、まわりは何とも思わないのはわかっていました。でも、こんな自分では、ビューティや人を素敵にする何かを作る側になれないかもと。また、咳や熱が出るたびに、再発したのではないかと不安でした。商品企画の仕事は、発売までに1年半~2年かかります。自分の企画が世に出るとき、私はこの世にいるのだろうかって…。見た目は元気になって、抗がん剤治療で抜けた髪も徐々に生えそろってきたのに、心はモヤモヤを抱えたまま」

社内ベンチャー制度に応募すると企画が承認されて

その後、グループ内のオルビス(株)に異動。がん再発率が大きく下がる術後5年を迎え、仕事へのモチベーションも戻ってきました。また社外では、がん患者支援のNPOに関わり、多くのがんサバイバーと話をするなかで、水田さんの考えも少しずつ変化したそうです。

 

「それまでは、『がんを経験して仕事に前向きになれない自分は隠すべき』『プライベートと外向けの顔はわけなければならない』と考えていたんです。でも、他のがんサバイバーが自身の経験を社会のために役立てている様子を見て、私も自分の経験を社会活動や仕事で活かせないかと模索するようになりました」

 

前後して、ポーラ・オルビスグループとして新たな方針が発表されました。A Person-Centered Management(個中心経営)の「仕事においても、社会に生きる一人の人としての経験や価値観を大切にし、個を発揮することを尊重する」という考え方が、社内で重要視されるようになりました。

 

そこで、水田さんは、社内ベンチャー制度に応募しました。

 

「最初は、医療用弾性ストッキングを扱うとは想像もしていませんでしたし、商材自体も浮かばないまま応募しました。当時の社内ベンチャー制度は、がちっとしたビジネスモデルが求められているのではなく、『誰に何を、どうしたい』という思いやアイデアを、書類1枚に書いて応募できるものだったんです。コンセプトは、『がん経験後の人生も幸福になれること』『どんな経験も価値として活かし、ビューティを提供する企業として、その人が美しくあることを応援すること』だというのははっきりしていました」

 

数十組の応募から書類審査を経て、10組程度までしぼられ、プレゼンへ。そこで水田さんは最後の2組に残り、熱意を認められ、承認を受けました。