バラエティ番組出演やYouTubeでのゲーム実況など、多方面で活躍中のサンシャイン池崎さん。ご実家の貧乏エピソードを話すこともありますが、「親父は社長で、貧乏な瞬間もあれば家にパジェロがある時期もあった」と振り返ります。「2軍の明るいボケ担当だった」という幼少期から、アルバイトに明け暮れた大学時代までを伺いました。(全2回中の1回)
小学校時代は「ひょうきんな子どもだった」
── 幼少期はどのようなお子さんでしたか?
サンシャイン池崎さん:小さいころはひょうきんで、ボケたがりな子どもだった気がします。小学校のクラス内では、イケてるグループではないんですけど、2軍の明るいボケ担当みたいな、わりと笑いを取るタイプでした。僕は池崎 慧(いけざき・さとる)という名前なんで、「さとちゃん」って呼ばれることが多かったです。
── 中学生・高校生のころはいかがでしたか?
サンシャイン池崎さん:中学校では、卓球部に入りました。相変わらずボケたりはしていましたけど、そんなに目立つほうではなかった気がします。ただ、このころからお笑いの世界に憧れていました。ナインティナインさんととんねるずさんの番組が好きで、「めちゃ×2イケてるッ!」と「とんねるずのみなさんのおかげでした」をよく見ていて。中学2年生のときの文化祭でコントをしたこともありました。
高校は共学に行きたくて、家から通える学校に入学しました。ボート部という珍しい部活に入り、部活中心の生活になりましたね。平日はずっと筋トレをして、土日は学校から1時間ぐらいかかる湖に行って練習する、みたいな感じでした。地元・鹿児島県にはボート部がある高校が5校ぐらいしかなかったですし、当時は強豪校もなくて。全国大会に出場したらいろんな土地を旅行できるなと思って、部活動に励んでいましたね。
── 高校卒業後は、大分大学へ進学されました。
サンシャイン池崎さん:そうですね。本当は、高校卒業したらすぐお笑いをやりたいなと思っていたんです。誘いたい同級生がいたんですけど、真面目なやつだったんで誘いづらくて。通っていた高校も進学校だったんで、だいたいみんな大学に行くんですよね。みんな進学するんだったら…みたいな感じで大学のパンフレットを見るようになって。
私立はお金がなくて行けないから、九州地方の国立で、自分の偏差値で可能な範囲の1番行きたい大学を探して、大分大学を選びました。ゲームが好きだったんで、情報系のゲーム関係に近い学部がいいなと思って、専攻は工学部の知能情報システム工学科にしました。
家に自分の部屋がなくて勉強がしづらい環境ではあったんで、放課後、教室に残って長めに勉強したり、1教科だけ塾に行ったりもしていましたね。友達が映像授業を見て学ぶ塾に通っていたんで、僕も親にお願いして、苦手だった英語だけはそこで勉強していました。
── 自主的に勉強を進めることができていたのは、なぜでしょうか?
サンシャイン池崎さん:わりと勉強が好きだったのと、6歳上の兄貴の影響もでかいのかなと思います。兄貴のことがめちゃくちゃ好きで仲もよかったんで、自然と勉強したり、考え方がちょっと大人っぽくなったり、兄貴から知識を得たりとかはあったような気がしますね。
喧嘩もしたことがなくて、怒られたのは僕が9歳か10歳ぐらいのとき、1回だけでした。ふたりともめちゃくちゃ漫画好きで、青山剛昌先生の『YAIBA』っていう漫画を集めていて。いつもは発売日に兄貴が新刊を買ってくるんですけど、当時小学生だった僕のほうが早く下校するから、先に本屋に行って新刊を買って家で読んでいたことがあったんです。そしたら高校から帰ってきた兄貴に「なんで先に買ってんだ!」「なんで先に読んでんだ!」みたいな感じでブチギレされて。それが唯一、兄貴にキレられた出来事でしたね(笑)。