芸人としてプロデビュー、親に猛反対されて家出も
── 学生でもプロとして扱われたのですね。でも、売れるまでは薄給と聞いています。アルバイトもされていたのですか?
リンゴさん:もちろん、芸人だけでは食べていけなかったのでバイトもしていました。でもお金ではなかったですからね。今の若い子もネタで「ギャラが少ない」とか言いますけれど(笑)、お金のためだけにやっているのではないはず。やっぱり、舞台に立てる楽しさや嬉しさが大きい。大学卒業するときには「うめだ花月」の舞台に立っていたので、結局そのまま芸人になりました。
── 厳しいプロの世界に身を置くのがつらいと思ったことは?
リンゴさん:今から40年前は、「舞台に立つようになったら親の死に目にも会えないのが舞台人」って言われたものでした。今は熱が出たらすぐ「休め」って言われるようになりましたが(笑)。卒業式に出るために劇場をお休みするということも言い出しにくい雰囲気のなか、当時のNSCの関係者の計らいで、特別に卒業式に出席できることになりました。とても嬉しかったのを今でも覚えています。
── リンゴさんのご両親は、芸人になることについて何と?
リンゴさん:それはもう、めちゃくちゃ反対されました。当時、『フレッシュ9時半!キダ・タローです』(朝日放送ラジオ/1973~1989年放送)というラジオ番組内に、NSCの1期生が3組出演して誰がおもしろいかを競うコーナーがあり、親に内緒でそれに出演していたんです。あるとき父親が車で出勤中にラジオを聴いていたら、私の声が聞こえてきたらしく(笑)。さすがに娘の声はわかったようで、すぐにバレました。
しかも、相方のモモコが「相方の親は、娘が漫才をしているのをしらんアホですねん」って言いよって(笑)。それを聞いた父はますます激怒。帰ってきてこっぴどく叱られ、「出て行け」って家を追い出されたんですよ。仕方がないから、祖母の家に1週間転がり込んだんですが、仕事で朝が早かったり、帰りが遅かったりするから、おばあちゃんに「しんどい」って言われてしまって…。そのあと、モモコの家に3か月ぐらい居候していました。その後、親に認めてもらうのにはかなりの時間はかかりました。
── それは大変でしたね…!
リンゴさん:でも全部、ほんまに、すべてが楽しかったです。私はわりと、初めての経験を苦労とはとらえず、楽しめるみたいなので。
今の若い子は、お笑いを就職先のひとつとして捉えているようですね。「吉本興業に就職します」って親にも言ってる。私の親はものすごく保守的だったので、NSCに通っていたことなんて言えなかったけど。時代は変わりました。
── モモコさんとはまったく違うタイプのようですが、どのようにコミュニケーションをとっていましたか?
リンゴさん:元々モモコとは、お互いのプライベートには踏み込まないっていう関係性ができあがっていたんです。だから、衝突することはなかったですね。それまでの女芸人のコンビって、家族や親族や友達同士で組むことが多かった。でもNSC以降、学校で知り合ってコンビを組むっていうのが増えてきて、ビジネスライクなつき合いっていうコンビも普通になったのかなと思います。ただ男性コンビと違って、女同士は仲が悪いとやっぱり顔に出ちゃうので(笑)。仲が悪ければ続かなかったと思います。
── リンゴさんが漫才を始めた当時は、コンプライアンスも今ほど重要視されていなかった思います。たとえば、ルッキズムという側面から嫌な思いをされたことはなかったのでしょうか?
リンゴさん:全然ないですね。最近ルッキズムってよく言われるけど、笑いって「落差」だし、差別ではなくて「区別」。そのギャップから起きるものだと思うんです。容姿に対してツッコまれたりするのが嫌な子もいると思うし、ツッコまれておいしいって考える子も存在しますしね。世間的には容姿をネタにすることがよくないって言われても、全然大丈夫って思っている子もこの世界には多い。舞台って“緊張と緩和”だから。見た目から話題に入るのが苦じゃないなら、そういうネタを展開したらいいと思うし。逆に私は見た目がブサイクといって笑いになるほどブサイクでもないし、べっぴんでもないから(笑)、いわば中途半端ブス。特徴がないことで悩んでいましたね。
PROFILE ハイヒール・リンゴさん
1961年、大阪府出身。京都産業大学在学中に、相方のモモコさんとハイヒール結成。女性漫才コンビとして、数多くの賞を受賞。2015年には大阪学院大学大学院商学研究科より名誉博士号を授与。現在も漫才、コメンテーターなど幅広い分野で活躍中。
取材・文/池守りぜね 写真提供/ハイヒール・リンゴ