芸歴42年のベテラン芸人として活躍中のお笑いコンビ・ハイヒールのリンゴさん。真面目な女子大生が一転、芸人の道を目指すことになった理由には、とある勘違いが関係していたそうで──。(全4回中の1回)

真面目な優等生が芸人の道へ

小学生のころのリンゴさん(右)と妹さん
小学生のころのリンゴさん(右)と妹さん

── リンゴさんは京都産業大学の経営学部を卒業されていますよね。ハイヒールを結成された1982年当初、大学生の芸人は珍しかったのではないでしょうか。

 

リンゴさん:当時、女子大生で芸人をやっていたのは私くらいでしたね。東大出身の芸人がいるぐらいですから、今はもう珍しくはなくなりましたけど。

 

── 小さい頃は、どのようなお子さんだったのですか?

 

リンゴさん:真面目な子だったと思います。お姉ちゃんがすごく勉強できたんですよ。それで、どこに行っても「(お姉さんの名前)さんの妹さんね」って言われて。だからお姉ちゃんに負けないようにと、必死で頑張ってきました。最近の子育ては褒めて育てるっていう感じだと思うのですが、私の世代は叱られるというか、𠮟咤激励されて育ってきた気がします。

 

── 大学生から芸人を目指されたのは、どういった経緯だったのですか?

 

リンゴさん:学生の頃は深夜ラジオを聴きながら勉強していたので、ラジオのパーソナリティーに憧れていたんです。関西でパーソナリティーになった方が京産大の卒業生と知り、それなら可能性があるかもと思い受験しました。でも実際に入学してみたら、その方はどうやらコネ入社だったみたいで(笑)。どうしようって悩んだんですが、当時のラジオパーソナリティーって、放送専門学校に行っている人が多いことがわかって、“大学だけじゃなく、専門学校にも通ったほうがいいな”と考えたんです。

 

学生時代のリンゴさん
学生時代のリンゴさん

── それがきっかけで、NSC(NSC吉本総合芸能学院)に?

 

リンゴさん:当時、京都の新京極に『京都花月劇場』っていう吉本興業の劇場があったんですが、そこにNSCの募集看板が出ていて。当時は「ラジオのDJコース」というのがあったので、試しに受験してみたら合格したんです。でも、いざ入ってみると、漫才、歌手、新喜劇、その他という専攻しかなく(笑)。会話を学ぶのならと軽い気持ちで漫才コースを選んで…今に至ります。

 

── ラジオのDJから漫才ってかなりかけ離れていますが…思いきりましたね(笑)。最初からモモコさんとコンビを組んでいたのですか?

 

リンゴさん:最初はNSCで知り合った6歳年下の子とコンビを組んでいました。でも、80歳と86歳ならともかく(笑)、15歳と21歳って人生経験が全然違うじゃないですか。早々に「これはコンビを組むのは無理やな…」って思って。

 

今思えば、私はNSCの1期生だったので、教えるほうも手探りの状態だったんですよね。ラジオパーソナリティーになるならここにいてもムダだな、違う学校に入り直したほうがいいのかな…と考えていたら、吉本の偉い人から電話がかかってきて。「君と年齢の近い子がいるから会ってみないか」って言われて会ったのが、モモコだったんです。当時、素人としてお笑いのオーディション番組に出ていたモモコを、吉本の関係者がNSCに誘ったようでした。

 

デビューしたばかりのころのハイヒール
デビューしたばかりのころのハイヒール

── その後、ハイヒールが誕生したのですね。

 

リンゴさん:NSCの寄席にモモコと出ることになったんです。当時、モモコとは友達でもないし、知り合いでもなかったから、それはもう淡々とビジネスライクに(笑)。でも、そのときの漫才を当時NSC配属だった大崎前会長(吉本興業代表取締役会長。23年に退任)が見ていて、「ここの構成を変えて、こんな感じでやってみたら?」とアドバイスしてくださって。軌道修正しながら続けていたら、「次はなんば花月(大阪市にある吉本興業の劇場)に出てみるか?」と声がかかりました。

 

── まだNSCの学生だったリンゴさんにとっては、大舞台ですよね。

 

リンゴさん:最初は「0番出番」(お客さんが入っていない時間帯の舞台)に立っていたんです。通常は朝12時、昼16時からの2回公演ですが、0番出番は11時45分からでした。

 

最初に舞台に立ったとき、私、「今、吉本の学校に通ってます。漫才をするので見てください」って言ってしまって。袖に下がったらすかさず「金輪際あんなことは言うな。お客さんはお金を払って見に来ているんだ。学生の漫才を見たいわけじゃないんだから」と支配人から注意されました。そこから、プロ意識が徐々に育っていった気がします。