営業マンとしてバリバリ働いていた39歳のとき、若年性アルツハイマー型認知症(※)と診断された丹野智文さん。当時、どこへ行っても「理解されない」ことに苦しんだ日々を変えたのは、新入社員からの恋愛相談が始まりでした。(全3回中の1回)

若年性認知症だとわかったとたん周囲から気を使われて

営業マン時代の丹野智文さん
営業マン時代の丹野智文さん

── 丹野さんは、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。2009年頃から少しずつ物忘れが増えていき、同僚の顔がわからなくなったことで病院を受診したそうですね。

 

丹野さん:39歳の誕生日を迎えてすぐ、2014年4月に大学病院で「若年性アルツハイマー型認知症で間違いない」と診断されました。

 

でも、突然「若年性認知症です」と言われても、その頃、僕の中での認知症は「徘徊する、暴れる」というイメージが強いだけで、どういう病気なのかよくわかっていませんでした。不安に襲われ、一晩中ネットで検索しても、出てくるのは「若年性認知症は進行が早く、2年で寝たきりになって、10年後には亡くなる」というネガティブな情報ばかりでした。毎日不安は募る一方で、眠れなくなりました。

 

── それはつらいですね…。

 

丹野さん:ある日、何か支援制度はないのかなと思い、役所に行ったんです。でも、介護保険を勧められたり、「会社を辞めてデイサービスに通ったほうがいい」と言われたりするだけで。僕は今までの生活をどうすれば続けていけるかを知りたかっただけなのに、そのことについて教えてくれる人は誰もいませんでした。

 

どこへ行っても同じ対応で、しかも、妻と一緒に行ったときには、僕が認知症だとわかるとみんな妻に説明するんです。挨拶もまず妻にして。名刺も妻に渡し、僕は一度も名刺を受け取ったことがありませんでした。

 

「いやいや、説明は僕にでしょう」「おかしくない?」と疑問しかなかったです。認知症の症状を実際に知っているのも、薬を飲んでいるのも僕なのに、家族に話を聞くばかりで、認知症という病名がついただけですべてが変わってしまったのです。

先入観なく接してくれた新入社員に救われた

── 仕事はどうされたのでしょうか。

 

丹野さん:当時はまだ子どもたちが中1と小5だったので、会社に土下座してでも働かせてもらおうと思っていました。ところが社長から、「身体は動くんだろう?仕事はあるから戻ってきなさい」と言ってもらえ、どうにか会社に残ることができたんです。総務人事グループで仕事をするようになりました。今では社員が病気になっても戻って働き続けられるよう環境が整えられてきています。

 

とはいえ、当時は会社にとっても認知症の人を雇うことが初めてだったので、僕に対してはまるで腫れ物に触るような対応でしたね。仕事も最初は「何をさせたらよいのか」と悩んだようです。

 

でも、その中でたったひとり、入社したばかりの新人社員だけは違っていました。認知症の知識が全然なかったからか、偏見をもたないというか、ごく普通に接してくれたんです。今思えば、あの頃は彼女が一番話しやすかったと思います。それで僕は、いつも彼女の恋愛相談にのっていたんですよ。

 

── 恋愛相談ですか(笑)。

 

丹野さん:はい。しばらくすると、彼女から「病気って聞いたけど、何なの?」「何に困っているの?」と聞かれて。少しずつ認知症のことを話していって、彼女の僕への対応が変わっていきました。

 

夏には、一緒にお酒も飲みに行きました。僕が「暑いよなあ。ビール飲みたいね」と言うと、彼女は「お酒飲んじゃダメなんじゃないの?」と言うので、僕が「お医者さんからはダメって言われてないよ」と答えたら、「じゃあ、飲みに行きましょう」とすぐに(笑)。

 

若年性認知症を公表した丹野智文さん
自動車販売会社で仕事をする当時の丹野さん

そんなふうに彼女と接するなかで、気づいたんです。自分から「何ができなくて、何ができるのか、何に困っているのか」をきちんと伝えなければ、まわりの人たちはわからない。だから、気を使って「そっとしておこう」となってしまうんだと。それからは、自分ができること、少し苦手になっていること、やりたいことを言葉にするようにしました。

 

そうしたら、まわりが変わっていきました。まず、上司から月1〜2回、仕事の状況について聞かれるようになりました。上司から「今の仕事量、どう?」と聞かれて、「ちょうどいいです」「もっと仕事ください」と、その都度、仕事の内容を調整してもらっていました。増やしてもらった仕事が難しすぎると感じたときは、「もう少し簡単な仕事をください」と正直に答えます。こんなふうに自分ができることを伝えながら、仕事に取り組んでいくと、上司やまわりとの関係も仕事も、すごくうまくいくようになりました。

 

ちなみに、あれから11年経ちますが、新人だった彼女は今も会社で働いていて、親にもなったんですよ。

 

── 職場の方、家族などまわりの方は、最初、腫れ物に触るようだったそうですが、たとえば、丹野さんを思うばかりに、傷ついてほしくないという気持ちもあったのかなと思いました。

 

丹野さん:そうなんです。ただ、認知症と診断されると、まわりが変わってしまうことに僕自身はとまどっていました。自分は何も変わらないのに。そんなふうに困ってしまう当事者の方は多いです。認知症の症状で困るのではなく、まわりの態度が急に変わってしまうから余計に落ち込んでしまう。

前向きになれた出会い「自分も当事者を笑顔にしたい」

── まわりの態度が変わってしまうことや将来への不安を感じるなか、気持ちがラクになったきっかけはありますか?

 

丹野さん:認知症の人と家族の会の交流会に参加したとき、広島から来ていた認知症の当事者と出会ったんです。その方はすごく元気で明るくて、人に優しくて。認知症に対する不安を話したら、「僕も1年半家に引きこもったけど今は元気になった」と話をしてくれました。そんな彼と3日間一緒に過ごしているうちに「この人のように生きてみたい」と思えたんです。この元気な認知症当事者との出会いがなかったら、今のようにうまくはいかなかったと思います。

 

広島から来た認知症当事者の男性(左)と丹野智文さん(右)
広島から来た認知症当事者の男性(左)と丹野さん(右)。この男性との出会いから丹野さんは前向きになれたという

── 現在、丹野さんは当事者のための講演活動もされています。

 

丹野さん:不思議な縁だなぁと思うのですが、広島の当事者の方と知り合ったときに参加した交流会で、「自分の経験を話してほしい」と頼まれて、初めて人前で5分ほど話したんです。そこでは、それまで溜まっていた不安や悲しみがあふれ出るように、思わずボロボロ泣きながら話しました。

 

そのとき、話した内容を自分の記録のために書き残したのですが、その後、講演を頼まれるようになって。その記録が現在の原稿になり、今では長時間の講演もできるようになりました。3〜4年前からは講演依頼が増えたので、社長と話し合い、講演活動や認知症の啓発活動が僕の仕事になりました。いろいろなところで講演をして、もう全国を2周するくらい各地を飛び回っています(笑)。

 

── 当事者のための相談窓口「おれんじドア」の活動もされています。

 

丹野さん:はい。「おれんじドア」は、僕が広島の方から元気をもらえたように、「目の前の不安をもった当事者の方たちに少しでも笑顔になってもらいたい」という思いで活動しています。

 

活動をしているからといって、僕は社会を変えたいとは思っていないんです。ただ、一人ずつ笑顔になっていけば、認知症の今までのイメージが変わっていくんじゃないかと思っています。

 

PROFILE 丹野智文さん

1974年、宮城県生まれ。ネッツトヨタ仙台で営業マンとして活躍するなか、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断される。現在、講演活動、また当事者のための相談窓口「おれんじドア」の代表として活動している。著書に『丹野智文 笑顔で生きる―認知症とともに―』『認知症の私から見える社会』がある。

 

(※)18歳から64歳までの「若年性認知症」と診断を受けた人は全国で約3.57万人(10万人のうち50.9人)。物忘れから症状に気づく人が約67%と最も多い認知症は、発症時点で約7割の人が就業していたものの、そのうち約70%が退職していたという統計もある(厚生労働省「若年性認知症実態調査結果概要 (R2.3)」)

 

取材・文/高梨真紀 写真提供/丹野智文