深夜の練習と日中の登校で「寝るのが下手になった」

── 中国では、日本人としては前例のないナショナルチームの一員として練習に参加されていました。当時の様子を教えてください。

 

高橋さん:北京のリンクでは、大人のナショナルチームが優先的に練習時間を決めています。私たちヤングナショナルチームはその合間に入れてもらうので、練習時間が夜中3時からなど、不規則な時間帯になってしまいます。日本人である私は、朝の練習と深夜の練習の間に学校にも通っていたので、ずっと練習か勉強をしているような状態でした。移動の車中で少しだけ寝るような感じでほとんど睡眠時間がなかったので、そのころから寝るのがすごく下手になったと思います。

 

── 中学生のときにシングルからペアに転向し、活躍されていた最中に帰国されました。どのような経緯だったのでしょうか?

 

高橋さん:そもそも、外国人が中国のナショナルチームと一緒に練習できるということ自体が大きな改革でした。初めての外国人が入るということで、中国スケート連盟や日本スケート連盟の方々が尽力してくださった結果、実現したことだったんです。そんななか、ペア競技に目覚めた私が中国では国技のようになっていたペアを始めて、中国人の男の子と組んだところ、大柄な男の子と小柄な私という体格差の優位性も相まって、1年目で全国大会5位に入賞してしまったんです。

 

喜んでいたのも束の間、次の日中国のスケート連盟から「ここは国のリンクだから、これ以上ここで練習したいのであれば、中国の国籍を取らないといけません。なぜなら将来、この技術を日本に持っていかれては困るから」と言われてしまいました。当時はみんなと一緒にいたいという気持ちがすごく強かったので、私自身はうれしくて中国国籍を取りたいと考えたのですが、両親が「スケートが終わったあとの人生はどうするの?」というような話をして説得してくれて。自分では決めきれず、中学校2年生の2学期後半に、日本へ帰ってきました。

「このままだと確実にいじめられてしまいます」

── 帰国後、中学生としての生活はいかがでしたか?

 

高橋さん:中国ではスケートの先生から「髪を染めたほうがかっこいいよ」とアドバイスを受けて髪を染めていたし、ロシアの選手たちがつけていた金のネックレスにあこがれて、私も同じものを身につけていたし、デジタルの腕時計もつけていたんですよ(笑)。

 

その状態で帰国して、敬語の使い方もあまり分からなかったので、中学校転入の前に両親が先生に呼び出されて「このままだと確実にいじめられてしまいます」と言われました。とりあえず腕時計だけは外して、髪は染めたまま、ネックレスはつけたまま中学校に入って。いじめられるようなことはなかったのですが、仲間に入れてもらえないことはありました。

 

当時はスケートの朝練があったので、朝の会や帰りの会に参加できずに授業が終わり次第、迎えに来ていた母の車に乗り込んで練習に行ったりもしていました。仲のいい2人の友達は着替えを手伝ってくれたりすごく応援してくれていたのですが、ほかの生徒からは「自分たちも部活をやっているのに、なんでスケートだけいいの?ずるい」とか「お母さんに甘えすぎ」とか「生意気」などと言われていたみたいで。特にこの「生意気」は、あだ名のように本当によく言われていました。実際に、生意気だったんですけど…(笑)。

 

── どんなところが生意気だと捉えられたのでしょうか?

 

高橋さん:両親が先生から注意を受けたのは「授業中に手を挙げていっぱい質問をすると、目立っちゃうのでやめたほうがいいですよ」ということでした。だから、ほかの先生が授業後に廊下で「何でも聞いていいよ」と言ってくれたときにはたくさんの質問をしていたのですが、普段の授業中は手をギュっと閉じて、聞きたいことがあっても我慢するようにしていました。

 

中国のインターナショナルスクールにいたころは、質問した者勝ちみたいな感じで、何も聞きたいことがなくてもまずは挙手をして「質問はありません!」と言えるような雰囲気だったんです。でも、それでは日本では生意気だと感じられると思いますし、今思い返すと、生意気だったと自覚しています。

 

当時、英語のクラスには私のほかにもう1人、海外からの帰国子女の生徒がいて。授業で発音をしっかりしてしまうと先生から冷ややかな目で見られたり、さされなくなったりしたので、2人で日本語英語を練習するという、今考えるとすごくさみしいことを頑張っていました。授業以外の時間でもなじめていないという感覚があったので、学校に対しては「行っちゃえばそれなりに楽しいけど、そんなには行きたくない」という気持ちでしたね。

 

── スケーターとしての帰国後の生活も聞かせてください。

 

高橋さん:スケーターとしては、地元の千葉県に戻ったら幼少期に通っていたリンク自体がなくなってしまっていて、千葉県から毎日、横浜などのリンクに通っていました。

 

ペアの相手に関しても、中国にいたころは恵まれすぎていたので、「探している」と言えばそのうち見つかるだろうと思っていたら、なかなか見つからなくて。ペアを一生懸命やってきていたぶん、シングルの練習ができていなかったので、1人で練習していると周囲から「レベル落ちたね。下手になったね」、「あんなに有望視されていたのに」、「中国に行かなきゃよかったね」などと言われることもあって、とても傷つきました。

 

千葉にいたころによくしてくださっていた先生方も、リンクがなくなったことで仙台や東京、岡山など、全国に散り散りになってしまっていて。スケートでも学校でも、居場所がないような気持ちになりました。

 

 

PROFILE 高橋成美さん

1992年1月15日生まれ、千葉県出身。2012年世界選手権ペア銅メダリスト、2014年ソチオリンピック日本代表を経て、2018年3月に現役を引退した。以降は松竹芸能に所属し、コーチングや解説、バラエティ番組などで活躍する一方、2023年6月からはJOC評議員・JOCアスリート委員・日本オリンピアンズ協会の理事に就任。今年8月開催予定の「北海道マラソン2024」では、アンバサダーとしてフルマラソンにもチャレンジする。

 

取材・文/長田莉沙 写真提供/高橋成美