高校卒業後に広島から上京してデビューした島谷ひとみさん。曲のヒットと共に世間からのイメージと現実のギャップに当時は悩んだこともあったそうです(全4回中の1回)。
広島から上京して寮に入るも
── 島谷さんは幼少期を、どんな環境で過ごしましたか?
島谷さん:広島県の瀬戸内に面した小さな島で生まれました。学校帰りには、叔父が経営しているカキの養殖場に立ち寄り、母やほかの親戚と一緒に作業を手伝うことがありました。カキのシーズンになると、仕事が忙しくなります。そのため、夕食にはホットプレートがボンッと出てきて。焼肉かなと思ったら、カキを焼いて食べるためだったんです。地元ではカキは日常的に食べられていたため、あまり高級なイメージではなかったと感じています。しかし、東京に出てオイスターバーに行き、カキの立ち位置の高さを知り、びっくりしました。(笑)。
── その後、高校生のときに、20万人が参加する第1回「ザ・ジャパン・オーディション」に参加。島谷さんは歌手部門でみごと合格したそうですね。
島谷さん:はい。合格して嬉しかったのですが、すぐにデビューとはならず。高校卒業後に上京して寮に入り、デビューを目指して歌やダンスのレッスンに毎日励みました。後から入った子たちが次々にデビューを果たし、寮を卒業していくなかで、私はデビューの見通しがなかなか立たず焦りを感じることも。寮生活では、俳優の国仲涼子ちゃんと親しくなり、お互いに励まし合いながら涙したこともありました。
── 東京での日々はいかがでしたか?
島谷さん:上京した初日からホームシックに悩まされました。寂しくて毎晩、実家に電話するといつも親戚が集まっていて、受話器の向こうからはワイワイ楽しそうな声が聞こえてくるんです。電話では、「元気だよ」「頑張ってるよ」というものの、電話を切ったあとにはいつも寂しくてひとり泣いてました。両親はいつでも帰っておいでといってくれたものの、逆に中途半端な気持ちのままでは帰ることも難しかった。そんな複雑な気持ちでいっぱいでした。
── その後、演歌『大阪の女』で歌手デビュー。2001年にはジャネット・ジャクソンのカバー曲『パピヨン〜papillon〜』、2002年には、昭和の名曲、ヴィレッジシンガーズのカバー曲『亜麻色の髪の乙女』と、曲が次々と大ヒットしました。
島谷さん:本当に奇想天外な人生だったなと、振り返ると今でも思います。当初Jポップ歌手を目指していたものの、ご縁があり、番組の企画で演歌歌手としてデビューすることになりました。演歌のデビュー曲で演歌チャート1位に選ばれたと思ったら、次は『パピヨン〜papillon〜』『亜麻色の髪の乙女』と、まったくジャンルの違う名曲を次々とカバーするなど、自分で想像していた以上のことが毎日起こっていったんです。曲がヒットしたおかげでたくさんの方に聞いていただくことができました。
── まわりの反応はいかがでしたか?
島谷さん:この頃から、島谷ひとみの名前を認識してもらえることが増えてきました。自分のことなのに、まるで自分を遠くから見ているような感じでした。同時に、忙しさから食事を抜くことがあったり、仕事に遅刻したらどうしようという緊張から夜ぐっすり眠れないこともありました。
とはいえ、どの仕事も本当に楽しかったです。つい仕事の向き不向きを考えて、これは自分に向いてないかも?と思いそうになることもあったものの、いただいた仕事には全力で取り組んでみる。最初からうまくできないことは当たり前だと思って、できないけど頑張りますというスタンスでやってきたのが、結果的によかったのかもしれません。