子どもの頃は極貧生活を過ごしたと語るアン ミカさん。1家7人4畳暮らし、学校の給食費が払えない。どのように気持ちを保っていたのでしょうか。(全5回中の1回)

「ちょっとミカちゃん」と先生に呼ばれて

── 子どもの頃は大阪の生野区に住んでいたそうですが、家庭が経済的に苦しい時代があったと聞いています。

 

アン ミカさん:両親と子どもたち5人(兄、姉、私、妹、弟)、一家7人で4畳半の部屋で暮らしていた時期がありました。大阪の長屋で2階の一部屋を借りていましたが、玄関を上がると知らないおじさんの部屋があって、おじさんが寝ている部屋を跨いで自分たちの部屋に向かうんです。

 

台所は借りていてトイレは共同、お風呂はないです。お風呂がある家に住んだのは高校2年生のときが初めてだったので、それまで銭湯通いでした。ただ、家族全員が効率人間だったので、銭湯に行くと、10円くらいでシャンプーやトリートメントが売っていますよね。1回使うと余っていても捨てる人がほとんどだったので、それをおばちゃんたちから貰って。当時は柔軟剤も家になかったですし、毛糸のパンツを洗うと縮むけれど、リンスをつけるとフワフワになるので柔軟剤替わりに活用していました。

 

中学生のときは陸上部に入りましたが、部活が終わった後に学校でシャワーが浴びれるんです。そこで友達からシャンプーやリンスをもらえたら銭湯に行かなくて済んだり。そんな節約生活でした。

 

── 近所の方とも助け合っていたそうですね。

 

アン ミカさん:はい。例えば、うちの布団が干しっぱなしだと、勝手に隣の家の人が入ってきて取り込んでくれる。泥棒に入られたところでとられるものがないですし、路地におばちゃんたちが椅子を持ってきて井戸端会議をしているから、知らない子が自転車で入ってきたら、「あんたどこの子や」ってなるので。逆に安心感がありましたから、「あそこの子、最近見いひん」っていう変化すぐわかるんです。映画『ALWAYS 3丁目の夕日』が今も残ってるような、人ってありがたいなって思えるエリアでした。

 

── 家の中でも工夫しながら過ごしていたそうですね。

 

アン ミカさん:きょうだいが5人だったので「ここのスペースは私たち3人で使おうね」などルールがハッキリしていました。押し入れの中を2段ベッドのように使うのも楽しかったし、誰かがもらってきたボロボロのトランプや百人一首、あとチェスや広辞苑。そういったもので、みんなで遊びを作って賑やかに過ごしていました。親は子ども5人を育てるのは大変だったと思いますが、両親ともすごくユーモアのある人だったので、家の中は明るかったですね。

 

アンミカ

── ただ、小学生時代は少しつらい経験があったとか。

 

アン ミカさん:大阪の阿倍野区に引っ越しをして、両親がラーメン屋さんを始めたので、家族もラーメン屋さんの上に住み込みで生活を始めました。ありがたいことにお店がすごく繫盛していたので、やっと普通の生活を送れるかと思っていたら家が火事になって。母はずっと首が痛いと言っていたら、実は癌だったとか。父は母の病院代を稼ぐために出稼ぎに行くことになって、私たち兄弟は親戚や通っていた教会に預けられて、家族バラバラに暮らす時期もありました。

 

家はずっとお金が足り無くて、当時学校の集金って茶封筒に入れて先生に手渡しだったんですね。でも給食費も払えなかったので、先生に呼ばれたことで、お金を払ってないことがみんなにバレてしまったり。

 

あと、友達のお誕生日会に呼ばれましたが、プレゼントを持って行けなくて…。みんなはちゃんとしたものを買って持っていきましたが、私はプレゼントを買うお金が無かったので、手作りのもの、家で焼いたクッキーを持って行ったときに、周りとの違いを感じました。親は「絶対手作りの方が喜ばれるから」って言ってましたけど、私は引け目を感じてしまい、「こんなのいらないんだってば!」って思ったし。だんだん友達の家に行くのも嫌になって、誘われなくなりました。