「うまくなりたいのはわかる。でも、1日中はプレイしてほしくない」、ゲームソフトのメーカーに籍を置く高橋名人は苦悩しながら、「ゲームは1日1時間」と子どもたちに語りかけました。この声はいま、スマホやタブレットに時間を忙殺される子どもにも当てはまるかもしれません。(全4回中の2回)

「ゲームは1時間」名人の言葉に業界も猛反発

──「16連射」で大ブームを巻き起こした高橋名人。ハドソンの販促をしながら、「名人」として全国をまわりながら考えたことを教えてください。ブームの盛り上がりにともない、ファミコンを苦い目で見る親も増えてきたのでは?

 

高橋名人:ゲームと子どもたちについては、ずっと考え続けていました。

 

ファミコン以前、インベーダーゲームができるインベーダーハウス(現在のゲームセンター)が全国に乱立しましたが、薄暗い店内、不良の溜まり場というイメージの悪さのため、PTAから小中学生は立ち入り禁止にされました。

 

そんな中、小中学生がそれまで自由にできなかったゲームがファミコンによって、家庭でできるようになり、時間を忘れて熱中しました。

 

ただ、親御さんにとってゲームは「勉強の敵」なので、なんとかいい方向に持っていかないといけない。問題になる前に、企業として何か対応を打ち出さないとまずい、ということになりました。

 

──「ソフトを売ればいい」ではなく、子どもたちへの影響を長期的な視野でとらえていたのですね。

 

高橋名人:はい。ただ、やはりゲーム業界を盛り上げなければいけないところもあり、難しかったです。

 

全国キャラバン1年目の1985年、鹿児島から始まり、福岡県のダイエーでのイベントではゲーム大会参加者以外の観客数も一気に増えました。そこで、いまこそ思いきって何か言わなきゃと、「ゲームは1日1時間に」と語りかけたんです。

 

ただ、時間で区切ってゲームをやめよう、と言っても子どもは聞いてくれないので、工夫しました。

 

「みんな、ゲーム上手くなりたいだろう。それには、頭がシャキッとさえているときに30分、1時間だけ集中して上手いプレイを記憶するのがいい」と伝えました。「長くダラダラとプレイしても、下手なプレイしか記憶できないから上達しないよ」とも言いました。

 

── 集中力は大切ですね。でも、ゲーム会社でゲームを売る人がそんなことを言い出すなんてと、驚かれませんでしたか?

 

高橋名人:何を言い出すんだと、まず問屋さんから怒られましたね。ゲーム会社の人間が「ゲームするな」と受け取られちゃって。翌日に役員会が開かれて、「高橋が何か言い出したらしい」と、話し合いになりました。

 

すると社長が、「ゲーム=不良みたいなイメージもあるから、企業としてきちんとした姿勢を示したほうがいい」と後押ししてくれたんです。それで、僕が言った内容を5か条の標語にして、ゲームソフトのマニュアルに掲載したりしました。

 

その5か条の標語はこちらです。

  • ゲームは一日一時間
  • 外で遊ぼう元気良く
  • 僕らの仕事はもちろん勉強
  • 成績上がればゲームも楽しい
  • 僕らは未来の社会人!

 

── 短期的な利益を考えると「何を言い出すんだ!」となりますが、ゲームが長く愛される存在になるには、これくらいの発想の転換が必要なんでしょうね。この出来事はゲーム販促の全国キャラバンが始まった年のことですよね。

 

高橋名人:はい、全国キャラバンを始めて1週間めで言いました。それでも遅かったと思います。

 

ゲームに対して、けじめをつけて遊ぼうともっと早く言っておくべきでした。でも、最初はキャラバンの運営などに気をとられ、そこまで頭がまわりませんでした。

『おはスタ』出演で学校に遅刻する子が続出!

── 通常業務もこなしながらの「名人」活動、相当忙しかったのでは?

 

高橋名人:土日はほぼイベントが入っていたので、水曜日を休日にしていました。ただ、その水曜日もテレビ東京の朝の番組『おはようスタジオ』に出演して、その後も朝10時ころまで打合せで、丸1日は休めませんでした。でもブラックではありませんよ、本人がやりたくてやっていたので。

 

── 社員だったからこそ、業界の将来も考え、長期的な視野でゲームの子どもたちへの影響もちゃんと考えられたのかもしれませんね。ご自身の影響力を感じた出来事は?

 

高橋名人:『おはようスタジオ』には親御さんからクレームの電話がかかってきたんですよ。私が出演する日は、子どもたちが私の出演を見終わるまで登校せず、遅刻してしまうと。

 

1986年、東映ビデオにて桜田名人(高橋名人の弟子としてキャラバンに参加、スタソルジャー、桃鉄などのゲーム開発も行った)とのツーショット

「それはいけない」と、出演時間を番組の最後のコーナーから最初のコーナーに変更してもらいました。

 

── そんなところまで影響が!高橋名人を主人公にしたゲームソフト『高橋名人の冒険島』シリーズや漫画もありましたね。タレントなみの活躍ですが、ずっと社員として勤務されていたんですよね?

 

高橋名人:はい、イベントやテレビ出演以外のときは、宣伝部員としてマニュアルを作ったり、デザインや印刷を考えたりしながら、ふだんの業務をこなしていました。『冒険島』はシリーズ4作まで続いたんですよ。

 

── テレビや雑誌に出るようになると、町で声をかけられたりしませんでしたか?ふだんからトレードマークの「帽子スタイル」で?

 

高橋名人:はい。でも、東京って有名人がたくさんいるからあんまり気にする人もいなくて、皆さんが考えるより過ごしやすいですよ。取り囲んでどうこう、というのはありませんでした。

 

でも、大阪だけは例外で、宿泊したホテルから「夕飯は外では食べないでください」と言われました。1回、光GENJIさんが泊まったとき、外に出たら大騒ぎになったらしくて。

 

── やはりすごい人気だったんですねぇ。私も、子どもだったら声をかけていたかも。

 

高橋名人:親子連れの場合は、お母さんが先に気づくことが多かったです。お母さんが「ほら、高橋名人だよ」って、お子さんにささやいているのはちょこちょこ耳にしましたが、私はあまり気になりませんでした。

最初は「失敗できない」気負いもあった

──「高橋名人」という名前に対する思い入れやプレッシャーは?

 

高橋名人:最初は「名人」というからには変な失敗はできない、子どもに負けてはいけないという気負いがありました。

 

でも、本番に強かったので負けたことはありません。子どもたちにとっては、名人はドラえもんでいう“ジャイアン”みたいな立場を意識していました。リーダーや兄貴みたいな存在でしょうか。

 

練習もそんなにできるものでもないので1日に1~2時間くらい。私はデモンストレーターなので、軽くプレイしてみて、ここをみんなに見せようと場面を決めて、そこをカッコよくできるよう練習していました。

 

当時は、技術的な理由によりゲームの画面を録画することができなかったんですよ。だから、基本はその場でやってみせて、失敗したらそれで終わり。すごい緊張感がありました。

 

ハドソン時代に子どもへ渡していた高橋名人の名刺

── ハドソン社内での役職名が「名人」になったというニュースがありましたね。

 

高橋名人:2006年かな、ある日、社長に呼ばれて「役職を名人にする」と言われたんです。入社して3年目から「高橋名人」を名乗っていたのですが、あれ?今までの呼び方は何だったのだろう、とは思いました。

 

── 2011年にハドソンを退社されてからも、「高橋名人」という呼称で活動されています。

 

高橋名人:ハドソンはコナミに吸収されたので、コナミさんが「高橋名人」という名称の権利を持っているんです。

 

でも、私が「高橋名人」という名前を使うのは基本的にOKと言われています。私もゲーム業界を盛り上げる活動を続けていますので。

 

高橋名人になって、来年で40周年です。みなさんも私を「名人」と呼んでくださるし、もう、自分の名前(高橋利幸)と同じくらいの感覚になっています。

 

PROFILE 高橋名人

1982年にハドソン入社。ゲームの営業から開発まで様々な業務に携わるなか、1985年に「第1回全国ファミコンキャラバン大会」のイベントにて「名人」の称号を確立。以降、当時のファミコンブームを追い風に「ファミコン名人」としてTV・ラジオ・映画に出演。ゲーム機のコントローラのボタンを1秒間に16回押す「16連射(連打)」で有名。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/高橋名人