出産翌日にダウン症の疑いがあると医師から告げられた、フリーアナウンサーの長谷部真奈見さん。診断確定までの1か月、そのとき夫がとった行動とは。(全5回中の2回)

院内では腫れ物を触るように

着物姿もお似合いの長谷部さん

── 2008年8月に娘さんを出産。その翌日に医師からダウン症の可能性があると言われ、出産から1か月後にダウン症と診断されました。まずダウン症の可能性があると言われてどんな心境でしたか?

 

長谷部さん:当時はとっさに人生終わった…と思ってしまったんです。自分で言うのもなんですが、妊婦として結構な優等生だったと思うんです。適度に体を動かして睡眠も十分にとり、飲み物はカフェインが入っていないルイボスティーにしました。食事も体にいいと言われるものを積極的に口にして、できるだけ真面目に過ごしていたんです。それなのにどうしてだろうって。自分が思い描いていた人生とあまりに違いましたね。

 

── どんな人生を思い描いていましたか?

 

長谷部さん:かわいいお洋服を着せてママ友たちとランチとかして。お受験を頑張って有名校に入って、習い事もピアノやバレエ、フィギュアスケートなどいろいろ習わせて。ちょっと大きくなってきたら娘と一緒にショッピングに行くとか、そうしたキラキラしたものを思い描いていました。

 

私が勝手に願っていただけです。実際はダウン症があっても思い描いていた半分以上のことは出来ましたし、新たな人生が始まっていきましたが、当時はまったくそんな気持ちにはなれなかったですね。

 

── 出産から1週間後に長谷部さんが退院。その1週間後に娘さんが退院されましたが、病院でも家でもかなり思い詰めてしまったとか。

 

長谷部さん:私があまりに精神的に不安定だったので、家族も私にかける言葉は気をつけていたでしょうし、腫れ物に触るような感じでしたね。私の行動に家族が不安を感じ、トイレは必ず開けっぱなしで鍵はしない。パジャマも病院で貸し出している紐つきのものではなく、被りタイプにするとか。夫も会社を休んで24時間つき添ってくれました。ご飯を買ってきて病室で一緒に食べたり、極力私がひとりにならないようにしていたと思います。

 

その後、娘より1週間早く退院して実家に戻りましたが、実家でも何もする気が起きなかったですね。1日中パジャマで過ごし、母親に「顔くらい洗いなさい」と言われる始末。ご飯はもちろん食べられないし、ただただ泣くだけ。見かねた母親から「あなたの仕事はまず息をすること。美味しいものを食べていい母乳を出すこと。今はそれだけできれば良いからね」とよく言われてましたね。

 

退院から数日経つと、娘がいる集中治療室に母乳を届けるようになったんです。夏で暑かったので、搾乳した母乳を保冷剤と一緒に冷やして病院に届けました。ただ、とにかく泣きながらすべてのことをしていたので、母親から「きっと今日の母乳は美味しくないよ」「楽しくなるようなことを考えながら搾乳してみたら?」といったことをずっと言われていたのを覚えています。

 

── 出産から1か月後にダウン症と診断されました。

 

長谷部さん:出産翌日に「ダウン症の可能性がある」と言われてから、ダウン症に関する本も情報も調べ尽くしました。だから頭ではわかってはいるんですけど、まったく気持ちが追いつきませんでした。ずっと心が機能不全に陥っている感じ。

 

家では母が、私が赤ちゃんのときに聴かせていたカセットテープを引っ張り出してきて。英語やイソップ物語のテープを聞かせようとしたんです。「知的障がいがあるっていうのに、何やってるの?無駄じゃない?」と言うと「わからない」と。障がいがあっても理解できるかもしれないし、やれることはやってみようという雰囲気でした。