小学生の頃から芸能界に憧れていた小松みゆきさんは、大学時代に親に相談せずに芸能事務所と契約を結んだそうです。「無知のままで、新しい世界に飛び込んだことがその後の失敗に繋がった」と話す小松さん。過去の苦い体験談の中には、母親になった今こそ伝えたい、若い世代へのメッセージが込められていました。
親に内緒でオーディションに応募していた中学時代
── 芸能界に憧れるようになったきっかけを教えてください。
小松さん:芸能界への憧れを持ったのは、10歳の時です。大ファンだった近藤真彦さんが主演の映画『ハイティーン・ブギ』を観て、「こういうお仕事があるんだな」と、「芝居の世界」に興味を持ちました。
中学生の頃、親に内緒でオーディションの審査に応募したところ、書類選考に合格して、「二次選考」のお知らせが自宅に届いたことも。その封筒を親が開けてしまって、「なんだこれは!」と驚かれたことを今でも覚えています。二次選考に挑戦してみたい気持ちはありましたが、親から交通費を出してもらえず、諦めざるを得ませんでした。それでも、「いつか東京で生活をして、お芝居の仕事がしたい」と夢見ていたんです。
── 大学進学と同時に、憧れの東京生活が始まります。スカウトされたのはいつ頃でしたか?
小松さん:大学1年生の5月頃です。高校までは地元の福島県の高校に通いましたが、大学進学時に上京し、4月から東京生活が始まりました。9歳からバレエを習っていたこともあり、「ディズニーのダンサーか劇団四季のオーディションを受けてみたいな」と考えていた時に、原宿で芸能事務所にスカウトされたんです。
── 上京早々にスカウトされて、驚きましたか?
小松さん:実は中学生の頃から、何度かスカウトは受けていたので、「もしかしたら、またスカウトされるかも?」とは考えていました。私の両親がボウリング場を営んでいたため、夏休みなどの繁忙期には東京の親戚宅に預けられることが多く、その時に遊びに行った原宿や渋谷で声をかけていただいていたんです。
当然、福島から通うことはできないのでお断りするしかありません。そんな経緯があったからこそ、大学時にスカウトされた時には、「いいんじゃないかな」という気持ちで所属することを決めたのです。
── 事務所に入る際、両親には相談しなかったんですか?
小松さん:親には相談せず、自己判断で契約書にサインをしました。所属してすぐに、グラビアの撮影がはじまりました。同時に映画のオーディションも受け始め、初めて二次選考以降に進むことができて、ワクワクしていました。
── 両親にはどのタイミングで打ち明けたのですか?
小松さん:最初の映画を撮影する前に話しました。地元の福島で撮影をするということもあり、親に話したところ「好きなようにやってみたら」という姿勢で受け止めてくれました。特に父は、若い頃に歌手を目指してレッスンを受けていたため、芸能界に拒否反応はなかったように思います。
初めての映画で長台詞。涙のシーンもNGなしで撮り終えた
── 女優としての初めてのお仕事はいかがでしたか?
小松さん:19歳の時に出演した『福本耕平かく走りき』という作品で、女優デビューしました。私は、同級生の男の子に恋をする美術部員の役で出演。出演者のほとんどが無名の高校生役だったため、撮影前に合宿を設定してもらい、1か月間、福島県郡山市のホテルに泊まり込みで練習を重ねました。合宿後も1〜2週間、セリフ合わせの時間をもらえたので、カメラが回る前に、しっかり心積りができたように感じています。
この合宿がなかったら、萎縮して何もできなかったかもしれません。恵まれた撮影だったと実感しています。
── 撮影で印象に残っているシーンはありますか?
小松さん:夕日の中で独白するシーンです。台本の3〜4ページ分ある長台詞で、途中で「涙を流す」という指示もあり、ものすごく緊張していました。夕景を狙っての撮影だったので1日に1回しか撮れないうえに、フィルム撮影なので、失敗した場合はフィルムを丸ごと捨てるしかありません。その重圧と緊張感は、今でも忘れることはありませんね。
涙を流すシーンについては、NGを出さずに撮り終えることができました。現場のプレッシャーと「スタッフさんが力を尽くしてくれたんだから、やらなきゃ!」という責任感が後押ししてくれたように感じます。
たくさんの人が関わって時間をかけて作り上げるという、映画の舞台裏の大変さを知ることができた初作品となりました。
芸能界を目指す子の親に「失敗談」を伝える理由とは
── 21歳の時に、「女優への転身」を宣言されましたが、当時の心境は?
小松さん:すでに女優としての仕事はしていたので、どちらかといえば「グラビアは終わりにします」という意味合いでした。
今だから話せるのですが、当時はトラブルもあって。その頃「お芝居の仕事をメインにしたい」という意向で紹介された事務所への移籍に承諾したのですが、その移籍先では、私の意思を無視した心外な仕事をさせられそうになったことがありました。「これまでと何かが違う」と直感が働いた撮影現場があって、撮影2日目には確信し、「もうこの仕事はできない」と、その事務所に直談判しました。
しかし、契約書にサインをしている以上、それは容易ではありませんでした。その後、事務所側は違約金を請求してきました。到底納得出来なかったため、民事訴訟に持ち込みましたが、契約書には「映像の仕事」と書かれているため、「『映画』か否かを判断するのは難しい」と当時の裁判所では判断されてしまいました。
── その後はどのように芸能界に復帰されたのですか?
小松さん:大手芸能事務所の社長さんに相談して、その事務所に所属させてもらうことで、一応は落着となりました。
事務所のことをよく知らずに身を委ね、言われた通りに契約書にサインをしてしまったのがそもそもの誤りです。その後は、芸能活動も再開でき、今日までさまざまな作品に携わることができていますが、事務所選びでの失敗は、私の人生観を変える転機となりました。
物事を決める時には先回りして考えるようすることと、聞きづらいことも気になったら質問するようすることが、過去の失敗から得た教訓です。
大事なことを聞かずに放置して、良くないことになるのを避けたいので、昔に比べたらだいぶ図々しくなったように思います。
── そうした経験から、どのような学びを得ましたか?
小松さん:「ひとりで考え込まない。決め込んではいけない」ということです。特に新しい世界に飛び込むのなら、その世界に精通している人に、しっかり意見を聞くことが大切だと思います。
最近、友人から「子どもが芸能界を目指したいと言っている」と、相談を受けることがあるのですが、そんな時は私の失敗談を話し、「契約する前に親が介入して話し合い、個人として大切にしてくれる事務所かどうかを見極めてほしい」と伝えています。
今だから「これっておかしいのでは?」と気づけますが、まだ社会の仕組みがわからない若い頃は、大人に「この業界はこういうものだよ」と言われてしまうと、鵜呑みにしてしまいます。思い返せば、私が最初に契約した事務所においても、不合理な報酬体系だったように思います。どれだけたくさんの仕事をしても「月給3万円」は固定でしたからね。私のように、無知なまま生きてきてしまうことの危うさを、今の若い子や、芸能界を目指す子たちに教えてあげたいです。
PROFILE 小松みゆきさん
女優。1971年、福島県で生まれる。実践女子大学在学中にスカウトされ、1990年にグラビアモデルとしてデビュー。その後、女優としての初作品となる『福本耕平、かく走りき』では準主役を務め注目を集める。1992年以降は女優の仕事に専念し、『大奥』シリーズや『デスノート』『闇の歯車』など出演作多数。2009年に結婚し、不妊治療を経て2021年に第一子を出産する。
取材・文/佐藤有香 画像提供/小松みゆき