下ネタなぞかけでブレイクした紺野ぶるまさんは、5歳のときに卵巣嚢腫と先天性の心疾患・心房中隔欠損症が見つかり、手術をしました。術後の経過は良好で、運動も得意だった一方、「勉強ができず、学校に行きたくなかった」と小学生時代を振り返ります。部活動に注力した中学生時代、ギャルに憧れて校則違反などを重ねた高校生時代についても伺いました。(全4回中の1回)
「痛い!お母さん助けて」卵巣嚢腫で救急搬送
── 小さいころに手術をご経験されたんですよね。
紺野さん:はい。保育園の年長さんだった5歳のときに、登園前の朝、ものすごい腹痛に襲われて。のたうち回って、「痛い、痛い、痛い!お母さん助けて!」って家の中で叫んでいたのを覚えています。そのまま救急車で病院に運ばれて、診察を受けたら卵巣がはれ上がっていて即入院になりました。卵巣嚢腫茎捻転という病気でした。
さらに詳しく調べてみたら、心臓にも8個の穴が開いていて、心房中隔欠損症だということも判明して。玉ねぎの皮むきみたいに、右側の卵巣を削って中にある腫瘍を出していくという手術と心臓の手術を、1回の入院で同時期に経験しました。
── 入院中の記憶はありますか?
紺野さん:結構鮮明にあります。麻酔を打つときに「今から注射をしますよ」って言われて、「やだ、やだ、やだ!」って騒いで、注射がめちゃくちゃ痛くて、しばらくして目が覚めたら手術が終わっていて。「あ、もう手術が終わったんだ」って気づいて恐怖で泣いたこととか、卵巣嚢腫の手術後の同部屋だった人たちが全員ご年配で、その中に1人だけ子どもの私が混ざっていたこととか、看護師さんがいつも優しくて、頭につけているアンパンマンの手作りの飾りみたいなものがすごく欲しかったこととか(笑)。
嫌なこともいっぱいあったんですけど、いつも家では布団で寝てたので、病院ではベッドで寝られることがうれしかったり、保育園に行かなくてラッキーだと思っていたりと、何となくキャンプみたいな感覚もありました。入院期間は1か月もなかったと思うんですけど、すごく長く感じていましたね。何より、抜糸が1番痛かった記憶があります。
「9歳の壁」にぶつかって学校が嫌に
── 小学生になってからのご様子も教えてください。
紺野さん:退院後は普通に元気に過ごしていて、習い事もいっぱいやってました。「やりたい」って言えば全部やらせてくれたので、ピアノとバレエ、英語、習字をしてましたね。何でもやらせてもらっていたので、うちはめっちゃ金持ちだと思ってたんですけど、昔の写真を見たらめっちゃ貧乏で(笑)。今考えると、親が共働きだったので、放課後誰もいない家にいるよりも、習い事に行って大人の目があるほうが安全だし効率的だと考えてくれていたんだと思います。
4つ上の兄からは「親は子どもが『習いたい』って言えばやらせちゃうんだから、『習いたい』って言わないでほしい」って言われていました。実際に、兄は何も習い事をしてなかったし、歯医者さんに行ったときも「銀歯の治療にお金がかかる」と言われたら「じゃあ、うちはお金ないんでいいです」って返事してそのまま帰ってくるような人だったんですよね。
私は保育園の時点で足し算ができたり、50音が全部書けたりしてたんですよ。だから入学後もしばらくは優秀で、誰よりも計算が早く終わって、「先生!」って手を挙げるような子でした。周りからも「すごく頭のいい子」って言われていました。
でも、2年生のときに転校してきた子とすごく気が合って、その子が隣の席になるとおしゃべりがめちゃくちゃ楽しくて。話し続けていたら、気づいたら授業についていけなくなってて。ちょうど小学2~3年生ぐらいの時期から、分数の足し算・引き算が始まるじゃないですか。「9歳の壁」にもぶつかっちゃって、そのあたりからは全然勉強ができなくて、特に算数が全然分からなくなりました。でも背が1番高くて、足も1番速くてリレーのアンカーになったりしていたので、体育だけは1番いいっていう子でした。
── 運動が得意だと、人気者になるイメージがあります。
紺野さん:いや、男の子から好かれるようなタイプではなかったです(笑)。授業中、先生にさされても全然答えられないから「うわ…」みたいな空気になることもありましたし、忘れ物が多くて「こいつ、なんか変」って言われて笑い者になることもありました。
女の子の中にもそんな私に引いてる子はいた一方で、仲がいい子もいたので、全員から嫌われてるってわけでもなかったと思いますけど、こんな日々が一生続くなんて…と考えるとつらすぎて、体育の授業以外は最悪でした。今思うと改善できる点があったはずなのに、なぜか「自分はダメな子なんだ」と落ち込むだけでした。
親が「お前たちは今が人生で1番楽しいんだ。仕事はもっと大変なんだ。学校に通ってる時期が1番いいんだ」って言うたびに「え、これが1番なの?」って思うくらい、学校に行きたくなさすぎてやばかったです。でも、行くものだと思い込んでいたので、行きたくない気持ちを親に伝えることはなかったですね。当時は土曜日の深夜にやっていた「COUNT DOWN TV」を観ることが幸せで。その番組を観ているときは、まだ明日も学校が休みだ!みたいな気持ちになっていました。
── 中学校に入学したあとはいかがでしたか?
紺野さん:勉強は相変わらずできなくて、でも英語だけは習っていたので、ちょっとはできていました。体育が5で、英語は3、あとは全部2という成績でした。親に「1だけはもらわないで」って言われていたので、2だけは死守していました。
ただ、数学は特に分からなくて、テストで9点とか取ってたんですよ。だから中1の夏休みに個別指導塾へ行って、その塾でどの単元からできなくなったのかを調べるテストを受けてみたら、やっぱり小学2年生ごろから、分数の計算からで。分数の足し算・引き算・掛け算・割り算を習得するために中1の夏休み1か月間を費やしちゃって、みんなが“数学”で因数分解とかを解いてるときに私は“算数”をやっていたので、秋になっても結局学校の勉強にはついていけませんでした。
でも、ずっとバドミントン部に入っていて部活動漬けだったんです。初めは多かった部員がどんどん減って、最後は6人ぐらいしかいなかったんですよ。試合に出るのは5人なので結構出場できていて、都大会でベスト8になったりもして。推薦入試で私立の女子高校に進学することになりました。