長男のダルビッシュ有、次男の翔、三男の賢太の3兄弟を育てた母・ダルビッシュ郁代さん。兄の有が野球で注目を浴びていく中で、翔の素行がどんどん悪くなっていき──(全6回中の4回)。

授業中に教室から飛び出して

── 次男の翔さんは、大阪の西成で炊き出しをされたり、SNSなどでも活躍されていますが、子どもの頃は子育てでご苦労されたと聞いています。

 

郁代さん:次男は多動性(ADHD)でじっとできなかったので、目が離せなくて。日々世話に明け暮れていた感じはありました。

 

── 翔さんが多動性だとわかったのはいつくらいですか?

 

郁代さん:もうずっと何か違うなって思っていたんですけど。でも、うちの次男が産まれた約35年くらい前って、ADHDとか多動性といった言葉が日本ではほとんど出ていなかったんですね。とりあえずじっとしてない元気な子みたいな感じで思われていましたが、じっとしていない度合いが普通じゃないなっていうのは、母親から見ても感じてました。

 

翔は保育園に入れていましたが、保育園で体を動かすとか外遊びがメインになるような時期はまだよかったんですけど、それでも先生方にすればだいぶ手がかかったのは間違いないと思います。

 

── その後、小学生になるといかがでしたか?

 

郁代さん:小学校に入って翔の行動は明らかに目立ちました。机の前で椅子にじっと座っていられない。授業の途中でも教室を飛び出してしまって、先生がいくら注意をしても全然ダメ。当時は多動性という言葉もなかったので、担任の先生は私がしつけをしていないからだと思っておられたようです。

 

ただひとつラッキーだったのは、私がたまたま知的障害施設の所長さんと親しくして、いろいろ相談をしていたことです。所長さんが一度、学校の先生と会ってくださると言って、先生も翔にかなり手こずっていたんでしょうね。「ぜひ」と3人で話をする場を設けていただきました。

 

先生は翔の状態を話し、所長さんもそれぞれの子どもの特性みたいなものを説明してくださって、その場では先生も納得してくださったように見えました。でも、翌日には翔がまた教室から出ていってしまい、先生が追いかけることに。

 

その間、約30人の子どもたちが教室に残されることになるじゃないですか。クラスもグチャグチャになってしまうし、私も何度も先生に「翔のことはほっといてください」って。「何かあっても先生の責任にすることはないですから」って言ったんですけど、教師の責任をきちんと考えられてる先生で、私の意見は採用することはできなかったんですね。

 

ただ、翔が小学1年生の夏休みのとき。何かの雑誌で偶然「ADHD」という言葉を発見したんです。ADHDの症状が30項目くらい書いてあって、読んでみたら「これうちの子や!」って。翔に当てはまらないのが「言葉が遅い」という1項目くらい。翔は、言葉はものすごく早かったんですね。だからこれだけ違うけど、他は間違いないと思って、その雑誌を持って行って先生に見せたんです。そしたら先生が「これ翔くんピッタリだ!」って。

 

先生もそこで初めてADHDというものがあるんだと知ったみたいで驚いていて。その後、担任の先生から校長先生に話がいって、そこからやっと先生が翔に対する接し方が変わったんだと思います。

 

左・翔さん、右・有さん

── 先生の意識も変わったのですね。

 

郁代さん:ただ、たまに父兄が学校に用があって来たりするじゃないですか。そのときにうちの子が砂場でひとり遊んでいる姿を保護者の方が見て、授業中に先生が近くにいるわけでもなく、ひとりで何かしていると。「この子の学ぶ権利はどうなるんだ…!」みたいなことを言った人もおられたそうですが、こちらはそれでいいよって言っていたのでね(笑)。その方なりの思いやりで言ってくださったと思うし、学校もいろいろ対応しながらやってくれてたと思います。

 

── 翔さんは、ご自身がADHDだということは自覚されていましたか?

 

郁代さん:本人にも言ってましたし、私が病院に連れて行ったこともありました。