映画『Love Letter』で、女優デビューを果たした酒井美紀さん。その後も人気作品に続々と出演し、特にドラマ『白線流し』の撮影時は、大学受験勉強も相まって多忙を極めたそう。当時について伺いました。(全3回中の2回)

「撮影が月に20日間」学校は春休みも返上し

── 16歳で映画デビューした後、生活はどのように変わりましたか?

 

酒井さん:高校生のときは、実家の静岡と東京を新幹線で往復しながら芸能活動を行っていました。それもあって、デビュー後は、学業と仕事の両立が難しくなりました。

 

特にドラマ『白線流し』への出演が決まった後はものすごく大変でした。長野県松本市で撮影していたのですが、「20日間滞在して撮影し、残りの10日間は学校に通う」という生活が約7か月続きました。

 

私の通っていた高校は、「3分の2出席」というルールがあったのですが、出席日数がたりずに冬休みや春休みを返上し、毎日ひとりで学校に補習を受けに通っていました。寂しくはありましたが、異例の形で対応してくださった先生方には感謝しています。

 

当時、私は大学受験生だったので、3学期になると同級生はあまり学校に来ていなかったのですが、私は出席日数の関係で、ギリギリまで学校に行っていました。2月の誕生日の日も補習で学校に行ったのですが、その時に教室の黒板に「ハッピーバースデー!」と書かれていたんです。サプライズで親友が来てくれて、祝ってくれました。とても嬉しかったのを覚えています。

 

── 当時、大学受験を控えていたとのことですが、どのように勉強の時間を確保したのですか?

 

酒井さん:セリフは撮影の合間に覚え、撮影後は受験勉強に励みました。事務所の方針で「高校までは親元で暮らすこと」と言われていたため、「大学に合格して、早く東京に行きたい」という思いで必死でした。

東京でひとり暮らしも「どこにいるかわからない日々」

── 大学生活はどのように過ごしたのでしょうか。

 

酒井さん:大学では新しい友達もでき、憧れの東京生活を楽しみました。仕事内容は、歌よりも女優としての出演が中心になり、ドラマや映画、舞台などさまざまな作品に出演させていただきました。「一つひとつ、丁寧にやらなきゃ」という気持ちで臨んでいましたが、自分が今どこにいるのかわからなくなるくらい忙しかったです(笑)。

 

江ノ島をお散歩(撮影:コハラタケル)
江ノ島をお散歩(撮影/コハラタケル)

──『白線流し』も継続して出演されましたね。

 

酒井さん:連ドラ後は、2年ごとのスペシャル番組として出演し、役の成長を追うドラマとして、計10年演じました。当時、まだ無名の俳優を多く起用していたにもかかわらず、たくさんの人に支持され続けたのは、日本の素晴らしい景色の描写や、思春期の子たちが心を揺らしながら成長していく様子に、高い共感性を感じてもらえたからなのかなと思っています。

 

── この頃には、「演技への自信」はついていましたか?

 

酒井さん:『Love Letter』の頃よりは自信がついていましたが、プロデューサーから「このシーン、どう考えているの?」と質問されるたび、戸惑いを感じていました。「いつ質問されても答えられるように、しっかり考えを持っておかなきゃ」と、常に思っていましたね。

 

演技をするうえで、「台本に書かれていない部分をどのように埋めるか」がとても重要で、セリフの裏側に厚みがあることで、言葉にも説得力が生まれるんです。共演する先輩方にも質問しながら、「役に厚みを持たせるためのノウハウ」を学んでいきました。

 

江ノ電と(撮影:コハラタケル)
江ノ電と(撮影/コハラタケル)

25歳で仕事を休みニューヨークへ行ったのは

── ニューヨークへの留学はどのような思いで決断されたのでしょうか。

 

酒井さん:演技の仕事はアウトプットの連続です。15歳でデビューして以降、10年間はほぼ休みなく仕事をしてきたため、「学びを得たい」という気持ちが高まり、留学することを決めました。現地では、語学を学んだり、海外で上演されているお芝居をたくさん観たりして、約1年半、インプットのために時間を費やしました。

 

── 留学中は、ボランティア活動も積極的に行っていたそうですね。

 

酒井さん:子どもの頃からボランティアに興味を持っていて、「もし女優になれなければ福祉系の仕事をしたい」と考えていました。ニューヨークでは、元看護師の日本人女性の紹介で、臓器移植のために渡米した日本人家族に向けて、生活面でのサポートを行っていました。その後、ニューヨークに住んでいる日本人に声をかけて、独自にボランティア団体を立ち上げて活動していました。

 

── 帰国後は、国際協力の活動や支援の輪を広げていきましたが、何かきっかけはあったのでしょうか。

 

酒井さん:世界の子どもたちの「児童労働」にフォーカスしたドキュメンタリー番組の企画で、レポーターとしてフィリピンに行ったのがきっかけでした。現地に赴く以前から、児童労働に従事する子どもたちがいることは知ってはいましたが、現実は本当に厳しくて。実際に目の当たりにすると、どんなふうに接してあげればいいのかわからず、無力さを痛感しました。「自分にも力になれることはないかな」と赴いたのですが、できることなんて本当になかったんです。

 

親善大使として支援活動地域を訪問(写真提供:国際NGOワールド・ビジョン・ジャパン)
親善大使として支援活動地域を訪問(写真提供/国際NGOワールド・ビジョン・ジャパン)

── フィリピンでの体験が、国際協力NGOへの加入につながったのですね。

 

酒井さん:心を打ちのめされて帰国して、「せめてプロの人に思いを託そう」と、国際NGOワールド・ビジョン・ジャパンのチャイルド・スポンサーシップにサポーターとして加入しました。その後、2007年に親善大使のお話をいただいたので、引き受けさせていただきました。

 

ニューヨークでの留学時代は、ホームレスへの炊き出しボランティアも行いましたが、先進国には先進国の、途上国には途上国の問題があるんです。ボランティア活動や番組出演など、さまざまな経験を積んだことで、世界にはさまざまな課題があるということを知ることができました。

 

── 経験を経て、国際協力やボランティア活動に力を注ぎたいと考えるようになったのでしょうか。

 

酒井さん:国際協力やボランティアって、無理をすると継続が難しくなってしまうんです。自分のなかで「できることと、できないこと」を明確にしておくことが大切です。私は、本業である女優の仕事をしっかりとやり、その合間のなかで、国際協力のお仕事やボランティア活動を「できる限り全力でやる」という形で取り組み続けています。

 

PROFILE 酒井美紀さん

女優。1978年、静岡県で生まれる。1993年に歌手としてデビューし、1995年に出演した映画『Love Letter』『ひめゆりの塔』では、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。その後、ドラマ、映画、舞台と幅広く活躍する。国際協力の知見を生かし、2007年より国際協力NGO「ワールド・ビジョン・ジャパン」親善大使を務める。2021年に、(株)不二家の社外取締役に就任。

取材・文/佐藤有香 画像提供/酒井美紀 サムネイル写真撮影/コハラタケル