FC町田ゼルビア・鈴木準弥選手は、大学を卒業したあとドイツでプロ生活をスタートさせましたが、帰国後は所属先がなく、「ニートみたいな生活だった」と言います。約5か月後、藤枝MYFCからオファーがあり、練習参加を始めた矢先に、初めてのお子さんを流産で亡くしました。当時の心境とその後の妊活について、時折涙を見せながら話してくれました。(全4回中の2回)
「赤ちゃんダメかも」妻からの連絡で頭が真っ白に
── ドイツから帰国後の“ニート生活”について聞かせてください。
鈴木さん:ドイツでの新シーズンから奥さんも一緒に連れて行こうと、奥さんには仕事をやめてもらったんですけど、ドイツの所属チームから契約延長のオファーがなくて。夫婦ともに収入がなくなってしまったので、お互いの実家を行き来しながら、新たな所属チームを探していました。夜遅くまで起きていたり、朝起きて気が向いたらジムに行ったり、家の周りを走ったり、ボールを蹴る場所がなくて、ニートみたいな生活をしていましたね(笑)。
そんなときに藤枝MYFC(当時J3)から「来季の契約を今提示するから、それまでは練習参加でどうですか」と声をかけてもらいました。午前中はトップチームで練習をして、夜はスクールで子どもたちに教えることで月々給料をいただく形に。引っ越すためのお金がまだなかったんで、実家から藤枝に片道1時間半弱かけて通い始めました。
朝は道が混むから朝5時半に出発して、練習場に早めに着いたら車の中で仮眠して。他の選手が来る時間になったら起きて練習に参加し、夜は8時か9時までスクールで教えて、また1時間半かけて帰宅する生活になりました。
── 悲しい出来事が起きたのは、そのころでしょうか。
鈴木さん:そう、その時期に流産したんですよね。その日、僕は藤枝の練習に、奥さんは検診に行くことになっていて。練習後に携帯を見たら「赤ちゃん、ダメだったかもしれない」と奥さんから連絡が来ていました。何が何だかわからなくて、「とりあえず帰る」と返して。若いうちの妊娠はスムーズにいくことが多いイメージだったし、妊娠すれば当たり前に子どもが産まれてくるものだと思っていたので、出産までに何かが起きる可能性を考えていなくて。頭が真っ白になりました。
練習場から奥さんの実家まで、同じ静岡県内なんですけど1時間半ぐらいかかるんです。その間に何を考えていたかとか、車で流れていたのがどんな音楽だったかとか、まったく覚えていなくて。急いで帰って駐車場に着いたら、奥さんが泣きながら家の外に出てきたのが見えて「あ、ほんとにダメだったんだ」と実感しました。一緒に泣きながらしばらく外にいました。
翌日も僕は練習で、奥さんはお義母さんともう1度病院に行きました。でも、診察の結果やっぱりダメで。「なるべく早く処置した方がいい」と言われて、掻爬(そうは)手術をすることになりました。
── 日帰りの手術だったのでしょうか?
鈴木さん:はい。掻爬手術はまず子宮口を広げるために器具を入れるんですけど、それがめちゃくちゃ痛いみたいで。器具を入れたまま1日過ごしたのち、手術日に子宮のなかから掻き出して。当日は僕も練習を休んで病院へ行き、病室で待ってました。
妊婦健診に来ている人たちと同じ入り口から病院へ入って、検診の人たちは右側の待合室に、僕らは左側から手術室がある2階に上がり、処置後は同じ出口から病院を出るんです。今となってはわかりますけど、正直、流産を経験するまでは検診以外で病院を訪れる人たちの存在に気づけていませんでした。でも自分たちがその立場になると、右側に座るお腹の大きい妊婦さんがめちゃくちゃ視界に入る。朝お腹にいた子どもを処置して、夕方には何もない状態で病院を出て行くことがキツくて。
病院の先生が「これは誰の責任でもないからね。本当にしょうがないことだから。気にしないで」と声をかけてくれたんですけど、子どもが亡くなるっていうショックな出来事だったから、先生の言葉をすぐには受け入れられなかったですね。
1人目の子どもだったし、心拍が確認できて母子手帳をもらったら安心だと思って、友だちやおじいちゃん・おばあちゃんに僕も奥さんも報告していて。でも流産したことはなかなか話せなかったので、しばらく経ってから、「そういえば、子どもは産まれたの?」って連絡が来たときに「実は…」みたいな。そういう返事をすることもキツかったし、コンビニでもスーパーでもどこにだって家族連れはいるので、その様子を見るたびに「本当はこうなっていたのかな」って考えていました。
子どもが産まれた周囲に対しても、「あの友だちはあんな生活をしていたのに、あの友だちは夜遊びに行っていたのに。自分たちだけがなぜ?」と変な感情を抱いてしまうこともありましたね。
── 周囲の言動に傷ついたり、少しだけ救われたりした場面はありましたか?
鈴木さん:誰かの言葉でめちゃくちゃ傷ついたってことはなかったですけど、逆に誰かの言葉でめちゃくちゃ救われたっていうのも正直あんまりないですね。周りが僕らに声をかけづらかったのもあるだろうし、やっぱり経験した人じゃなきゃわからないところもあるので。経験したことがない人から言われても、気持ち的になかなか難しいなと思う部分も当時はありました。
でも時間が経ってみて、あのときにもし同じような経験をした人が周りにいたら、もしかしたら少しは救われたのかなという思いが出てきて。もちろんデリケートな問題だから、「公にしたくない」と思う人もいるかもしれないけど、1人でもいち家庭でも救われることがあるんじゃないかと。
たとえ救われないとしても、「自分たちだけじゃないんだ」と思ってもらえるだけでもいいから、そういう場を作りたいなと考えて。X(旧Twitter)で「流産を経験した鈴木家」っていうアカウントを作りました。
サッカー選手ってちょっと華のある憧れの存在みたいなイメージを持ってくれてる方もいるみたいで、Xで流産について発信したら「まさか私と同じ経験をしていると思っていなかった」、「言ってくれてホッとした」、「発信してくれてうれしいです」などとDMをもらいました。
流産後の妊娠は「めちゃくちゃ過敏になっていた」
── 妊活を再開された時期について聞かせてください。
鈴木さん:子どもはずっと欲しかったんですけど、奥さんが手術で痛い思いをして心身共に大変だったから、1年か1年半は空けようってお互い決めていて。1年後ぐらいから、いつできてもいいねという感じになりました。
1回目のときは妊娠自体はスムーズだったので、流産は経験したけど不妊ではないと僕らは思っていて。でも妊活を始めてから2回生理が来たときに、奥さんは泣いてましたね。今考えたらたった2回なんですけど、1回流産をしたことで「もしかしたら子どもができづらくなったんじゃないか」と感じたみたいで、めちゃくちゃ過敏になっていました。
3か月後に子どもができたとわかったんですけど、前回の経験があったんで、正直もう検診なんて何も楽しみじゃなくて。僕は練習があって検診はあまり一緒に行ってあげられなかったんですけど、練習後はすぐに携帯を見て、奥さんからの「赤ちゃん大丈夫だった」っていう連絡で無事を確認していました。
検診って初期は1週間ごとだけど、その後はどんどん受診の期間が空いていくじゃないですか。胎動がなかったりどこかにぶつけたりするとすぐ心配になったし、「ちょっと出血したかも」、「おりものの量が増えた」なんて聞くと「え、病院行ったほうがいいんじゃないか?」と言って。産まれて元気な姿を見るまではずっとソワソワしてて、毎日検診してほしいって思うくらい、敏感になっていましたね。
── 同じ経験をされているご夫婦のなかには、奥さまにかける言葉に悩む男性もいるようですが、鈴木選手はどのようにサポートされていましたか?
鈴木さん:特には意識してなかったです。僕も本当に悲しかったから、一緒に悲しんで一緒に次に進んでいくという感じでした。もちろん、女性の方がお腹に子どもを身ごもったり、痛い手術をしたりと、より実感が湧いているとは思うんですけど、僕は変に気は使わなくていいんじゃないかと思います。
気を使うことが逆に他人事に感じさせてしまうこともあると思うので、一緒に時間を共有するだけでいいんじゃないかな。変にサポートしようとすることが逆方向に行く可能性もあるので、男性がよかれと思っていても、そのときの女性のメンタルや心身のバランスもあるかもしれないし、気を使わずに自然体でいることがいいんじゃないかなと思います。
PROFILE 鈴木準弥さん
1996年1月生まれ。早稲田大学卒業後、ドイツ3部VfRアーレンに入団し、藤枝MYFC、ブラウブリッツ秋田、FC東京を経て2023年7月、FC町田ゼルビアに完全移籍した。妻、3歳と1歳の女の子、愛犬と暮らしている。地元・静岡県沼津市に「株式会社 準弥」を設立し、社長としても活動中。
取材・文/長田莉沙 写真提供/鈴木準弥、株式会社ゼルビア