FC町田ゼルビアのJ2優勝とJ1昇格に貢献した鈴木準弥選手は、清水エスパルスユースから早稲田大学に進学。大学時代はユニバーシアード日本代表としても活躍し、ドイツでプロデビューを果たしました。しかし、華やかな経歴から一転。帰国後は所属クラブがなく、「新婚だけどニート生活だった」と振り返ります。

 

“ニート生活”を経てJ3からJ2、そしてJ1へと上り詰めるまでの紆余曲折や、サッカーに明け暮れた幼少期、FC町田ゼルビアを率いる黒田剛監督について伺いました。(全4回中の1回)

「監督は勝負にこだわる姿を見せ続けてくれた」

──J1・FC東京からJ2首位だったFC町田ゼルビアへ昨夏に加入後、月間ベストゴールにも選出されるなど、活躍されました。移籍の経緯と、チームにフィットするために心がけたことを教えてください。

 

鈴木さん:藤枝MYFC(当時J3)とブラウブリッツ秋田(J2)でプレーしたあと、待ちに待ってたどり着いたFC東京(J1)だったんですけど、FC東京では試合に出られていない時期が続いてて。出場したいという思いを持ちながら可能性を探っていたときに、FC町田ゼルビアから「どうですか」と話をいただきました。

 

J1という舞台からJ2にカテゴリーを下げることへの怖さもあったんですけど、自分にとって何が1番なのかを素直に考えたときに「試合に出たい」と思ったので。夏のタイミングで必要としてくれたこともうれしかったし、出場できる可能性は大きいんじゃないかと思って、早めに移籍を決断しました。

 

フィットするために特別なことはしてないんですけど、もう本当にがむしゃらにやりました。「俺はJ1から来たぜ!」みたいな気持ちじゃなくて、試合に出たいんだ、出るんだということを全面に出して、監督やチームが求めていることは何なのかを早く理解して、それを少し大げさに表現するようにしました。「もう理解してるんだな」や「フィットしようとしてるな」などを感じてもらえるようには意識しましたね。

 

一応、小・中・高・大と全部のチームでキャプテンをやらせてもらってきたので、監督が求めていることは何だろうって考えて意図をくみ取ることはずっと心がけています。

 

──昨年からFC町田ゼルビアの監督に就任したのは、強豪・青森山田高校サッカー部で27年間監督をつとめた黒田剛さんです。どのような方ですか?

 

鈴木さん:青森山田で成し遂げてきた結果もすごいし、「高校生への指導とプロへの指導では違う部分がある」と言われていたなかで、このクラブを1年で優勝と昇格にまで導いて、すごい人だと思います。出てなかった選手を急に使ってその選手が結果を残したり、交代で入った選手が点を取ったり、勝負の神様がついてるんじゃないかと思うくらい、勝負師だとも感じますね。

 

監督自身もきっといろんな波はあるはずなんですけど、僕らにわからないようにずっと高いモチベーションを保って勝負に一番こだわってる姿、ずっと何かを表現する姿を見せ続けてくれました。

 

黒田さんのミーティング、長いんです(笑)。試合が終わって翌週に振り返りミーティングがあるんですけど、選手のひとつのプレーやステップ、体の向きとかにもすごくこだわるんで、めちゃくちゃ言われるんですよ。ただ、監督が考える攻撃の基準と守備の基準がしっかりあって、僕にも言うけど、僕が出場してないときに同じポジションで出てる選手にも、同じ基準で指摘してるんですよね。

 

だから、「あの人には言わないじゃん!」みたいなことがなくて、例えば外国人選手だろうが年上だろうが若かろうが、いつもぶれずに言ってくれる監督ですね。

4人きょうだいの末っ子、泣き虫だった幼少期

「引っ込み思案だった」子どものころの鈴木選手

── サッカーを始めたきっかけを聞かせてください。

 

鈴木さん:僕は4人きょうだいで、お姉ちゃんが3人いる末っ子なんです。自分で言うのもなんですけど、家族にめちゃくちゃかわいがられて大事にされてたからか、保育園に行っても泣き続けておばあちゃんに迎えに来てもらったり、親が武道を習わせようと連れて行ったら体育館から逃げ出しちゃったりしてたみたいです(笑)。でも、保育園にあったサッカー教室だけは泣きながらもなんとか通ってたらしくて、それがきっかけですね。  

 

小学校に入ってからも相変わらず泣き虫で、1年生のときは6年生のお姉ちゃんに休み時間のたびに教室まで来てもらって、次の授業までの10分間くらいそばにいてもらってたらしくて(笑)。友達もできるからなんとなくサッカーを続けてたんですけど、地元・静岡のスタジアムで清水エスパルス対ジュビロ磐田の試合を見たときに、サッカー選手ってかっこいいなと思うようになって。小学校3、4年生のころからは、学校行事とかで将来の夢を書くときには自然に「サッカー選手」と書くようになっていました。

 

── そのころから練習漬けの日々だったのでしょうか?

 

鈴木さん:本当にずっとサッカーをやっていた印象があります。同い年の幼馴染で、小学校低学年のころからずっと一緒にいた鈴木拳士郎っていうアスルクラロ沼津の選手がいて。拳士郎の家に泊まった日は朝一緒に小学校へ行って、帰ってきて公園でボールを蹴り合って、そのまま2人でスクールへ行ってました。たしか火曜日と水曜日がチームの練習で土日が試合だったんですけど、月曜日と木曜日はスクールにも通ってたので、学校にいる時間以外はとにかく毎日練習してましたね。

 

中学生になると、静岡県の東部にあるACNジュビロ沼津に進みました。各少年団のエースが集まってくる東部エリアでは強いチームだったんですけど、そこでやれていたから、プロになれるんじゃないかと自信を持つようになりました。

 

当時のジュビロはゴン中山さんや名波浩さんが活躍していて、親も僕もファンだったので、よく試合観戦に連れて行ってもらってたんです。だから「高校生になってもこのままジュビロのユースに昇格してプレーしたい」って思ってたんですけど、練習参加の結果、上がれないことになり、人生で初めての挫折を経験しました。

 

どうしようって焦っていたときに、何度も対戦してきた同じ静岡県内の清水エスパルスに声をかけてもらって、高校時代はエスパルスユースに所属することになりました。エスパルスに行ったらやっぱりすごい人たちがたくさんいて。高1のときに高3とプレーすると、すべてにおいてスピード感が違って、大人と子どもくらい差があるように感じました。

 

ユースの上のカテゴリーはプロが所属するトップチームなんで、立ち位置的にはサッカー選手になる夢に1番近づいたはずなんですけど、近づくどころか逆にすごく遠のいたような気がしましたね。

「好きなことでメシが食えるほど幸せなことはないぞ」

── その後は早稲田大学ア式蹴球部に入部されました。大学生活はいかがでしたか?

 

鈴木さん:大学で初めて部活という世界に入ったので、上下関係とか寮生活で同級生や先輩たちと一緒に生活するとかっていう環境に、初めはすごく衝撃を受けました。

 

入部してすぐの合宿も、とんでもなくキツくて。合宿中は、朝6時15分ぐらいから砂浜を走る「出走」というトレーニングがあるんですけど、1年生は朝6時には部員たちが飲むための水を砂浜に準備しておかないといけないんです。起きるときのガサガサっていう音で同部屋の先輩を起こさないように、前日の夜に練習着を着たままアラームをかけて寝ていました。5時半ごろに起きたら静かに廊下に出てソックスを履いて、15分ぐらいかけて砂浜まで歩いて水を運ぶっていう流れで。これが10日間ぐらい続いたんで、僕はアラームが鳴った瞬間に消すっていう能力を身につけました(笑)。

 

プレー面でも、試合に出るのはなかなか難しくて。3つにチーム分けされるなかで、1年生からトップチームには入ってたんですよ。僕としてはサッカー選手になるなら、2年生ぐらいから試合にしっかり出て3年生ぐらいからJリーグのキャンプに行くことをイメージしてたんです。でも1年生では出れず、2年生も2~3試合しか出れず、焦りが募りました。

 

そんなとき、試合に出てない選手たちで関東選抜を組むことになって、その中からセレクションに合格したみたいな形で全日本大学選抜にも入ったんですよね。だから、2年生から3年生の初めにかけては選抜の活動がほとんどで、大学リーグ開幕1週間ぐらい前に部活に帰ってきたんです。

 

「今までは試合に出られなかったけど、全日本選抜に入ったからもう出られるだろう」って思っていたら、僕がいない期間に別の選手が築き上げた信頼が大きくて、また出場できず。全日本選抜なのに3年生になっても出られなくて、これはもうプロになれないんじゃないか、プロになれないならサッカーやってる必要ないな、もうサッカー辞めようかな、それなら大学も辞めようかなって思って、覚悟を決めて親に伝えることにしました。

 

── ご両親はどんな反応をされましたか?

 

鈴木さん:父は口数が少なくて威厳があったんで、大学に入るまでは実はあんまり話せなくて。ただ、入学後も静岡から東京まで毎試合見に来てくれて、試合会場からそのまま地元に帰るときは、僕が助手席で母が後部座席に乗ってたんで、車中で少しずつ喋るようになりました。

 

そのときに「大学辞めてもう働くわ」って言ったら、父から「好きなことでメシ食えるほど幸せなことはないぞ。まだその可能性があるなら、もうちょっと頑張れば?」ってぼそっと言われて。その言葉で「じゃあもう1回、なんとかやってみよう」って奮起することができました。そのあと早稲田があんまり勝てなかったりもして、メンバーを変えてみるかってことになって試合に出て、出続けられるようになっていきましたね。

 

── 大学4年生のときは早大のキャプテンになり、「学生のオリンピック」と呼ばれるユニバーシアード競技大会にも出場されました。Jクラブの内定先が決まる選手も増えるなか、鈴木選手はどのような進路を選択されたのでしょうか?

 

鈴木さん:ユニバーシアードに出た20人の中には、日本代表の三笘薫や旗手怜央、同い年だと守田英正などがいました。その選手たちは大学3年生でJチームのキャンプに行ったり4年生のときには内定が出てたりしていて。その中でただ2人、僕ともう1人だけが所属チームが決まっていませんでした。

 

でも、ユニバーシアードの事前合宿でドイツに行ったときに、現地のチームから練習参加の話をもらっていて。現地の環境のよさを感じていたこともあり、J1やJ2の上位チームに所属できないのであれば、ドイツに行こうと決めました。日本を発ったのは大学4年生の1月1日。卒業単位は取れていたので、卒業式には出ないまま単身で向かいました。

 

ドイツでは3部のチームに所属したんですけど、そのとき2部のチームからも「キャンプに参加してみませんか」と言っていただいたんです。でも、2部のチームって宇佐見貴史さんとか今だと田中碧とか、すごい人たちが行っても活躍するのがなかなか難しいようなところだから、J1から声がかからなかった僕がいきなり行くのは厳しいんじゃないかと思って。

 

まずは3部のチームから始めて、シーズンが1回終わったときに3部のもっと規模が大きいチームや2部に挑戦しようかなと、当時は甘く考えていました。そしたら3部でも数試合しか出られなくて。

 

ドイツは5月にシーズンが終わるので、新シーズンが開幕するときには当時付き合っていた奥さんも一緒に連れて行こうと思って、一時帰国して結婚したんです。でも結局、契約継続のオファーは来ず、ドイツのチームは退団することに。Jリーグに所属しようにも登録や申請が間に合わなくて、新婚なのに5か月間ぐらいニート生活になりました。出産やコロナ禍もあって、昨年末まで結婚式も挙げられてなかったですね。

 

6年越しに地元・静岡県で挙式した鈴木さん夫妻

 

PROFILE 鈴木準弥さん

1996年1月生まれ。早稲田大学卒業後、ドイツ3部VfRアーレンに入団し、藤枝MYFC、ブラウブリッツ秋田、FC東京を経て2023年7月、FC町田ゼルビアに完全移籍した。妻、3歳と1歳の女の子、愛犬と暮らしている。地元・静岡県沼津市に「株式会社 準弥」を設立し、社長としても活動中。

 

取材・文/長田莉沙 写真提供/鈴木準弥、株式会社ゼルビア