小学生の頃から地元の歌唱コンテストで優勝、入賞を繰り返していた荒牧陽子さん。20歳で上京してシンガーソングライターを目指すも、30歳を過ぎて違うレールに乗ることになって。(全3回中の1回)

シンガーソングライターとして活動していたはずが

── 小学生の頃から地元の歌唱コンテストで優勝、入賞を続け “コンテスト荒らし”と呼ばれていたとのこと。当時からシンガーソングライターを目指していたのでしょうか。

 

荒牧さん:子どもの頃は漠然と歌が好きだなと思うくらいで、高校を卒業して20歳のときに気持ちが固まった感じですね。

 

── 地元の岡山から上京されて、オーディションもたくさん受けたそうですね。

 

荒牧さん:はじめは全然ダメでした。岡山の中では賞が取れても、東京には全国からすごい人たちがたくさん集まってるんです。自分ではちょっと歌が上手い方だと思っていましたが(笑)、思いっきり鼻を折られた気持ちでした。

 

しばらくは飲食店などでアルバイトをしながらレッスンに通い、並行してガイドボーカル(カラオケの演奏と一緒にお手本の歌を歌う)の仕事をしていました。ガイドボーカルで初めて歌ったのは倖田來未さんの曲です。そこから徐々に依頼が増えていって、ガイドボーカルやコーラスなど、裏方ミュージシャンとして生計が立てられるようになったのは25歳くらいだったと思います。

 

── 順調に経験も積まれていったと。

 

荒牧さん:ただ、自分が本来目指していたシンガーソングライターとしてはまだまだでした。インディーズで曲は出していましたが、ほとんど売れなかったんです。20歳で上京して10年。30歳になって焦りを感じていた頃『スター☆ドラフト会議』という番組から出演依頼がありました。「ガイドボーカルされてますよね。一度番組に出てみませんか?」と。どこかで私のことを聞いて、連絡をくれたようです。

 

── しかし、本来シンガーソングライターである荒牧さん、「ものまね」と言われてどう思いましたか?

 

荒牧さん:まずは何かきっかけが欲しかったので、チャンスだと思いましたね。しかし「ものまねとしての出演」と言われ、正直、ガイドボーカルを「ものまね」というジャンルで捉えていなかったので、世間に受け入れてもらえるのかと不安もありましたが、「頑張らせていただきます!」と快諾しました。

 

そもそも30歳で何も結果が出ていなかった私にオファーをしてくださったこと自体ありがたかったです。もし、このお話を20代前半にもらっていたら「ものまね目指していないんです」と断っていたかもしれませんが、なんでも挑戦しよう!という気持ちになれるタイミングだったことが良かったと思っています。

 

── いざ、番組に出演すると一気にオファーが増えたそうですが、はじめから思うように歌えましたか?

 

荒牧さん:はじめは、たとえば倖田來未さんの歌を歌うときも、「ものまね」というより倖田さんの歌い方を「コピーする」イメージ。あまり特徴を誇張し過ぎないで歌っていたんです。でも、だんだんとそれだけだと伝わらない気がして、ライブではどんなテンションで歌っているのか。倖田さんのこの部分の癖をもうちょっと強く入れるともっと似てくるのかなどを研究するようになりました。

 

また、ガイドボーカルは声だけ意識して歌っていましたが、ものまねの世界では表情や仕草も求められるんです。そこにも始めはとても苦戦しました。そんな中、お客さんが求めていることはなんだろう。どうしたら楽しんでもらえるんだろうって試行錯誤しながら、いろいろ経験していくうちに楽しみ方がわかってくるんです。最初の頃はカツラを被るのも「わっ、カツラか!」と驚きましたが、気づけば「カツラ被りまーす!私のカツラどこですか?」って被り物をみずから探すようになりました(笑)。