「人生、やりたいことをやるのが一番いい」。こう話してくれた木下紫乃さんは、現在、赤坂で風変わりなスナックを経営しています。その名も「スナックひきだし」。さまざまな職を経て見出した、「週1回の昼スナックのママ」という肩書き。その経緯と理由について伺いました。(全3回中の1回)

キャリアアップに興味はない

──「スナックひきだし」には、どのようなお客さんが集うのでしょうか。

 

木下さん:「おしゃべりがしたい」という人が多いです。当店は、「お酒を飲む場所」というより、「人との交流を楽しむ場所」を目的としていることもあり、さまざまな世代の方が会話を楽しむために来店しています。

 

「スナックひきだし」での私の役割は、人と人をつなげること。来店してくれた人たちの中で、「この人とこの人、共通項を持っているな」と感じたら紹介してあげて、あとは各々、自由に会話を楽しんでくれています。「つなげたら不思議なシナジーが生まれるかも」と思って紹介することもあります。スナックでは、日常生活ではおよそ接点のない、まったく違う職業や世界で生きている人同士が出会える点も魅力です。

 

接客をする木下紫乃さん
接客をする木下紫乃さん

── スナックを始める前はどのようなお仕事をされてきたのですか?

 

木下さん:慶應義塾大学を卒業後、最初に勤めた会社はリクルートでした。しかし、7年働いた頃、メンタル不調に陥り、会社にいると涙が止まらなくなるように。「自律神経失調症」という診断を受け、退職することを決めました。

 

しかし、生きていくためには働かなければいけません。次の仕事を探しているときに、先に退職していた同期に相談したところ、「今いる会社、小さいけど人材を募集しているよ」と紹介してもらい、入社を決断。その後も、「そろそろ違う仕事がしたい」と思ったタイミングで転職を繰り返しました。今から20年以上前のバブル期で、仕事に困らない時代だったこともあり、人脈伝いで仕事を転々としていました。

 

起業する直前に働いていたのが、人材開発系の会社でした。そこでは営業部に所属し、大企業向けの研修の企画や運営を行いました。やりがいのある仕事で、会社員人生の中で最長となる10年間勤務しましたが、長く勤めるほどに、キャリアの行き詰まりを感じるように。「次はどうしよう」と考え始めたときに、「大学院に通って学び直しをしている」という先輩に出会ったんです。その先輩の話を聞き、「大学院に行くのもありかも」と思い至り、45歳のときに慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科に入学。女性の活躍や新しい働き方について研究しました。

人材開発で起業するも波に乗ることはできず

── 人とのご縁が、木下さんの人生を導いてくれているのですね。

 

木下さん:それしかないですね(笑)。大学院では、「人材系の仕事が今後どうなっていくか知りたい」という探究心と、「ほかの業界の人とも繋がりたい」という気持ちで学びました。

 

卒業後は「人材開発」の仕事をしようと考え、2016年に株式会社ヒキダシを設立。具体的な事業内容は明確ではありませんでしたが、根底にあったのは、「40〜50代の人たちが、元気になれることをしたい」という思い。なぜなら、これまでの会社員生活の中で、「大企業に勤めていても、縮こまって生きている40〜50代」を数多く目にしてきたからです。もっとその世代が元気に生き生きとしてれば、若い世代が「大人になるのも悪くない」と感じるようになるはずと思いました。

 

仕事に行き詰まりを感じたのが起業のきっかけになった
仕事に行き詰まりを感じたのが起業のきっかけになった

そこで、「人生を考えるきっかけを作ろう」と、企業研修やセミナーの開催、講座の開設などを企画。しかし、思うような集客につながらず、波に乗ることができませんでした。

 

── そこで「スナック営業」に方向転換したということでしょうか。

 

木下さん:そうですね。「セミナーよりも、もっと気軽に人が集まれる場所をつくったほうがいいのかも」と考えているとき、大学院で一緒に学んでいた仲間が「バーを開業した」という話を聞き、ちょっと「店を貸してほしい」とオファーしてみました。スナックなら、抱えているモヤモヤを解放しやすいんじゃないかと考えたんです。

 

その後は月に2〜3回、19〜21時の時間帯で、スナックのママとしてカウンターに立つことに。間借りという形で、店の看板に「スナックひきだし」という紙をペタッと貼らせてもらい、「イベント開催」という感覚でのスタートでした。

「自由に本音を話せる空気」がスナックにはあった

── 初めてみていかがでしたか?

 

木下さん:間借りしながらのスナック営業が始まってしばらく経つと、「行き当たりばったりで、会話を楽しむのも面白いよね」という感じで、たくさんの人が来てくれるようになりました。

 

セミナー会場では口がかたく、本音を話さない人が多かったのに、「スナック」という場所では、全然違う。「仕事が大変で転職したい」「夫婦関係がうまくいかない」など、今思っていることを積極的に話してくれます。「場所の力」は大きいなと、改めて感じましたね。スナックという場を設けたことで、今の40〜50代が何を考えているのか、どんな壁にぶつかっているのか、私が欲しかった情報が驚くほど入ってくるようになりました。

 

スナックは「本音」が聞ける場所だった
スナックは「本音」が聞ける場所だった

── 最初は夜営業だったとのことですが、紫乃ママは昼間に営業するかたちに変更したそうですが、なぜでしょうか。

 

木下さん:40〜50代ってちょうど子育て中の方も多いですよね。スナックを始めていたら、子育て中のお母さんたちから「夜は家事や育児があってお店に行けない」という声も聞こえてきたんです。そこで当時のオーナーに「昼間、お店を借りていい?」と提案。その後は「毎週木曜日の昼間に開店する」と決め、昼営業を始めました。すると、徐々に口コミが広がり、10席程度の席が埋まるほど人が集う場所になっていきました。思いつきのアイデアが私をここまで運んでくれました。

 

PROFILE 木下紫乃さん

1991年にリクルートに入社後、数回の転職を経て、企業研修設計と人材育成を手掛ける企業に入社。約10年間勤務し、大学院入学を経て、2016年に株式会社ヒキダシを設立。40、50代の働き方や生き方を支援する活動の一環として、2017年に「スナックひきだし」を開店。週に一回、昼営業で「紫乃ママ」を勤める。著書に『昼スナックママが教える「やりたくないこと」をやめる勇気』(日経BP)。

取材・文/佐藤有香 画像提供/木下紫乃