「男らしさ・女らしさ」で縛り合わない関係を目指して学生結婚をした中畝治子さんと常雄さん。そんなご夫婦のもとに、重症心身障害児の長男が誕生します。夫婦関係の変化や長男への思いについて聞きました。(全2回中の1回)
母親の姿から確信した「女性も働くこと」の重み
── まだ「女性も働くことが当たり前」ではない時代、治子さんが働き続けることを選んだ背景には、お母様の存在がありました。
治子さん:大正生まれの母は、当時の女性では珍しく大学を出ていました。勉強もできたそうです。それなのに専業主婦でいる自分にもがき苦しみ、精神的に不安定な時期もありました。
そんな母の大きな不満を感じていた私は、いつも不安な子ども時代を過ごしました。だから自分は、女性でも仕事をもって、自分の足で立ちたいと強く思いました。
でも今は、自分の心に正直でいた母に、感謝もしています。母が、よき妻、いい母を演じられる人だったら、今の自分はなかったと思いますから。
── 大学院時代に常雄さんと学生結婚をされました。
治子さん:私が求めていたのは「対等なパートナーシップ」の関係です。「男らしさ」「女らしさ」で縛り合う関係は絶対に嫌でした。そこで出会えたのが夫です。当時の夫は、控えめで伏し目がちで、まつ毛が長くて…。好みでした(笑)。「俺についてこい!」なんて絶対に言うタイプではなく、それがよかったんです。
当時は「女の子には、職業的に期待しない」ことを隠さない時代でした。「いい家にお嫁に行くこと」が「女の子のいい人生」。私は東京藝術大学で学びましたが、同級生も、私以外の女性はみんな結婚を機に筆を折るような時代でした。
でも夫は、私が、哲学者・ボーヴォワールの『第二の性』にある「女は女に生まれるのではなく、女になるのだ」という一節に感銘を受けた!と話すのを真剣に聞いてくれるような人でした。
── 常雄さんは、そんな治子さんのことをどう思っていましたか。
常雄さん:私も「対等」がよかったんです。私が高校生のころに学生運動が始まりましたが、デモなどの現場の中心は男性でした。静岡県の高校でしたが、上京してまでデモに参加するようなクラスメイトたちを見ていて、自分はそんなふうに「男らしく」頑張れないなと思っていました。
治子とは、それぞれが得意なところを褒め合いながら、ときには批判し合いながら、並んで絵を描いていました。そんな関係が自分には心地よかったのです。
「男らしさ」を求めない妻と、子どもができても保育園に預けて、お互いに支え合いながら頑張っていく。そんな未来を描いていました。
重症心身障害児の長男が誕生「逃げたかった」
── おふたりの生活にとって、長男・祥太君の誕生は、大きな転機となりました。
治子さん:知的にも身体的にも最重度の障害があり、生活上の全てに介助が必要だったので、常に誰かがそばにいる必要がありました。最初は「この現実から逃げたい」と絶望しかありませんでした。
当時は「障害は治すもの、克服するもの」という社会の価値観がありました。「障害を少しでも軽減して、健常に近づけるのはお母さんの役目」というメッセージを浴びた私は、母親である自分が、療育を担うべきだと思い込みました。
常雄さん:私も「父親が経済的に家族を支えなければならない」という枠に入れられ、もがいていた時期でした。
── それが大きく変わったきっかけは何だったのでしょうか。
治子さん:ひとりで子育てをする重圧と、働きたいという思いで、私がうつ気味になりました。そんなときに、定期的に訪問してくれていた自治体職員の方に相談したら、ヘルパーの手配をしてくださったんです。
女性が働くことに対して理解のある方で、子どもへのヘルパーが珍しい時代でしたが、親身になって動いてくださいました。ヘルパーさんが入ってくれる日を徐々に増やして、障壁画の復元模写事業にも参加できるようになりました。
常雄さん:「助けて」と声をあげることの大切さを学んだ経験でした。私は、祥太の障害がわかったとき、この子は、苦労をもたらすだけの存在だと思いました。でも、それは大きな間違いでした。祥太を中心に人間関係はどんどん広がって、祥太がいなければ出会えなかったたくさんの人とつながることができました。
「何もできない子」が教えてくれたこと
──「克服したい」という祥太君への思いは、その後どのように変化していきましたか。
治子さん:祥太は、無表情で泣くだけの赤ちゃんでした。この子は、何もわかっていない、母親である私のことさえもわかってないと思っていたんです。でもある日、笑顔を見せてくれたんです。楽しいという感情があるんだとびっくりしました。
祥太の子育てに前向きになれたのは、下の子ふたりの存在も大きかったです。健常の子も育てることで、障害のあるなしに関係なく、可愛くて、かけがえのない存在だと思えたことが嬉しかった。やっと背筋を伸ばして子育てができるようになりました。
祥太も、喜びのある人生を送ってほしい。笑顔を増やしたいと思うようになりました。
祥太を、克服させたい対象と見ると、可愛く思えないんです。目の前の祥太ではなく、「よくなるはずの祥太」しか見えていないから。それは本当にもったいないことだったと、今振り返ると思います。
── 2002年、17歳で祥太君は亡くなりました。
治子さん:最期は突然のことでした。夫との二人展に向けて、夜中まで別の部屋で絵を描いていたときです。祥太はふだん、寝返りがしたくなると声を出して呼んでくれていたんですが、それがなかった。気になって見に行くと、呼吸が止まっていました。すぐに救急車を呼んで病院に行きましたが、息を吹き返すことはありませんでした。
高校3年生に進級する春を迎えた直後のことでした。当時は今よりも重症心身障害児の寿命は短く、中学からの同級生はみんな既に亡くなっており、祥太はひとりで先生たちと京都への修学旅行も予定していたんです。新横浜駅に新幹線を一緒に見に行ったり、先生たちもすごく準備してくださっていました。
常雄さん:祥太が亡くなったあと、担任の先生が、祥太の写真と一緒に嵯峨野のトロッコ列車や東映太秦映画村といった修学旅行のコースを回ってくださったんです。その様子を撮った写真を見せに来てくださいました。
「オレはオレのために生きただけだよ」と祥太は言うかもしれませんが、周りの人の優しさを引き出す力をもった子だったと思います。本当にたくさんのことを教えてもらいました。
PROFILE 中畝治子さん・常雄さん
東京藝術大学日本画科で同級生となる。1976年、同大学院修了。大学院在籍時に学生結婚。1984年に生まれた重症心身障害児の長男・祥太君とふたりのきょうだいを育てながら、東寺両界曼荼羅、松島瑞巌寺障壁画復元事業にも参加。治子さんは、小学校図工講師、保育系大学や短期大学で教鞭をとる。現在は、横浜市にある医療的ケア児の看護や介護を行うNPO法人「レスパイト・ケアサービス萌」の代表理事を務める。
取材・文/桐田さえ 画像提供/中畝治子・常雄