帝王切開で長女を出産後、脳出血で左半身まひの生活を余儀なくされた布施田祥子さん。下肢装具をつけるようになって直面したのは、「履きたい靴が履けない」というツラい現実でした。
「娘を抱っこする」「嵐のコンサートへ行く」明確な目標があるからがんばれる
── 出産後、脳出血が起こったときのことを教えていただけますか。
布施田さん:36歳のとき、帝王切開で娘を出産しました。10日間入院する予定でしたが、発症したのは、8日目の夜です。前日から血圧が高くて、頭痛もあったんですけど、私は普段から片頭痛持ちなので、あまり気にしていませんでした。
夜中、ナースステーションに預けていた娘にミルクをあげようと歩いていったとき、ちょっと足がもつれたんです。帰りはもう、うまく歩けなくて、看護師さんに抱きかかえてもらって病室に戻りました。ベッドに横になったら、だんだん左半身が動かなくなっていく感覚がありました。
夜中に夫と母に送ったメールにあまりにも誤字脱字が多かったので、2人ともびっくりして、朝一番に病院に来てくれました。朝になって検査を受けたら、大静脈血栓と脳出血を併発していることがわかって、ICUに12日間入院しました。
私はそのあいだ薬でずっと眠っていて、夢を見ていました。誰かが声をかけてくれたらその人が夢に出てきて。夫が私の好きな嵐の曲をかけてくれていたので、夢の中で嵐のコンサートにも行っていました。
目が覚めたとき、先生には「左半身のまひが残る。がんばれば歩けるようになるかもしれないけれど、手は動くようにはならない」と言われましたが、あまり実感はなくて。5か月後の嵐のコンサートのアリーナチケットが当たっていたから、「絶対に行ける」と根拠もなく確信していました。
でも、現実にはトイレに行くにも看護師さんを呼ばないといけなくて、「このまま一生、人の手をわずらわせて生きていかなきゃいけないのか」と思って泣いたこともあります。「もっと早く治療をしてもらえていたら」という思いもありました。
そんなとき母が、「娘が元気に生まれたんだから、また家族で笑って暮らせるようになろう」と言ってくれて、気持ちを切り替えることができました。前向きな母の言葉には、ずいぶん救われましたね。
──入院中、娘さんはどうされていたのですか。
布施田さん:おもに私の実家で、ときどきは夫の実家でも預かってもらっていました。
私は急性期の病院からリハビリ専門の病院に転院して、リハビリを始めました。目標は、とにかく娘のお世話をすること。最初は病院で、赤ちゃんの人形を使って練習していたんですけど、動かない人形では練習になりません。平日のリハビリの時間に外出許可をもらい、家に帰って娘とリハビリをしていました。赤ちゃんがいることで、先生が気をきかせてくれたのか、入院直後から毎週末外泊許可を出してくれて、家族の時間を持てるようにしてくれました。
もうひとつの目標だった嵐のコンサートは、倒れてから5か月後に、10年来一緒にコンサートへ行っている友人と一緒に行くことができました。人が多いところは危ないから車いすで行ったのですが、アリーナ席だったから舞台がよく見えて、感動しましたね…。
──リハビリをがんばったごほうびですね。
布施田さん:私は熱心にリハビリをするほうではなくて、すぐにサボるんですけど(笑)、明確な目標があるとがんばれるんですよね。
娘が7か月のとき、退院して自宅に戻ってからは、毎日の生活がリハビリになりました。どうしてもできないことは夫にやってもらいますが、右手で料理も娘の世話もできますし、退院してから毎日、娘の保育園まで当時の私の足では片道30分ほど 、バギーを押して歩いて送り迎えをしました。これが何よりのリハビリになったと思います。おかげでかなり早く歩けるようになりました。早いだけではなくて「きれいに歩きたい」と思ったので、そのためのリハビリや筋トレもがんばりました。
大好きだったゴルフもリハビリに取り入れてもらいました。ただラウンドするだけではなくて、「倒れる前みたいに飛ばせるようになりたい」という目標があったので、歯を磨きながら体重移動の練習をしたりして。
逆に、「やればやるほど動かせるようになる」という具体的な目標のないリハビリは、全然やる気になりません(笑)。
作りたいのは「障がい者用の靴」ではなくて「障がいがあっても履けるおしゃれな靴」
── 仕事を始められたきっかけは何だったのですか。
布施田さん:すぐに社会復帰できたわけではないんです。退院して1年くらいたったころに、10代のころから患っていた潰瘍性大腸炎が悪化してしまって。入院して治療を受ければ早くよくなるのはわかっていたんですけど、娘と離れたくなかったし、長年服用していたステロイドが脳出血の原因の一つともいわれていたので、ステロイド治療も怖くて。できるだけ自宅で、食事療法や漢方で治したいと思っていました。
でも30分おきにトイレに行きたくなるから寝られないし、腹痛がひどくて食べられなくて、2年弱の間に12キロ以上痩せてしまいました。寝不足で、2、3歳で甘えたい盛りの娘にあたってしまっては自己嫌悪に陥って…。「死んでしまったらラクになるかな…」と思うこともあったし、思えばこのころが人生でいちばんつらい時期でした。
病院で検査を受けたら、「大腸が機能していない、このままでは命が危ない」と言われて、大腸全摘手術を受けて、人工肛門を造設することになりました。私の場合は「一生、人工肛門を使うことになる」と言われて、とてもショックでした。「どうして私ばかりこんな思いをしなきゃいけないんだろう」と母に泣きついたこともあります。
そのとき、母に「つらいのはあなただけじゃない。世の中には、病気以外にもいろんな苦労をしている人がいるよ」と言われて、自分だけに向いていた意識が外に向いた気がしました。
実際に手術を受けたら、痛みはないしぐっすり眠れるし、何でも食べられるようになり、体重もあっという間に戻りました。やっと人間らしい生活ができるようになって「なんて幸せなんだろう!」と思いました。
心身ともに健康を取り戻したとき、やっと家族や友達と自由に出かけられるようになって、心にも余裕が持てるようになりました。そしてだんだんと「社会と関わりたい、自分が遊ぶお金は自分でなんとかしたいな」と思うようになりました。障がい者雇用で就職をして、経営企画部に配属されましたが、総務課の庶務の仕事につきました。
職場の人間関係はとてもよかったのですが、接客業が長かったので、総務や庶務の仕事は肌に合わず、やりがいを感じられませんでした。「もっと責任のあるクリエイティブな仕事がしたい」と思うようになってきて。娘との時間も持ちたかったし、病気や通院のこともあり、「もっと自分で時間をコントロールできる働き方をしたい」という思いもあって、「じゃあ、フリーになろう」と。それなら、障がいを負った経験も活かしながら、自分が好きなファッションの仕事がしたいと思いました。
── それで、靴のブランドを立ち上げたのですね。
布施田さん:もともとファッション、特に靴が大好きなんです。ファッションは靴で決まると思っているので、いつも靴からコーディネートを考えていました。倒れる前は、姉とよく海外へ行っては、靴を何足も購入していましたし 、靴は多いときで100足近く 持っていました。それが、片まひになって下肢装具 (立位や歩行に必要な足の機能をサポートする装具)をつけるようになったら、ほとんどの靴が履けなくなってしまって。特に通勤をするようになってからは、おしゃれな靴を履けないつらさを再認識して。「履きたい靴がないなら、自分で作ろう」と思ったんです。
出産前は、アパレルやジュエリーブランドで働いていて、販売やスタイリングの経験はありましたが、靴を作るのは初めて。でも、「こういう靴を履きたい」というイメージは持っていました。
まず、一緒に靴作りをしてくれるメーカーを探して、職人さんに自分が作りたい靴のイメージを伝えて、どんな靴なら履けるのかを説明しました。福祉用の靴を作っているメーカーではなくて、百貨店などに卸しているメーカーにこだわりました。私が作りたいのは「障がい者用の靴」ではなくて、「下肢装具をつけていても履ける、おしゃれな靴」です。
ブランド名の「Mana‘ohana」は、大好きなハワイからつけました。ハワイ語で「自信、希望、期待」 という意味です。私もそうでしたが、ある日突然病気や障がいを負ってしまうと 「人生が変わってしまう」と考える人は多いと思います。でも、「そんな人生は悲しいし、つまらない」と思ったんです。私たちが作る靴が、「そういう人たちの自信や希望になるといいな」という願いを込めました。
お客様のなかには、進行性の病気でいつかは歩けなくなってしまう方もいます。でも「歩けなくなっても、部屋に飾って見ていたい」と言ってくださいます。試着会に来てくださって、「今は履けないけれど、こういう靴があることが希望になる」と涙を流してくださった方もいらっしゃいます。まさに、靴が「希望」になっていると思います。
── これから取り組んでいきたいことはありますか。
布施田さん:社会復帰したとき、靴もそうですけれど、「モノはもちろん、あらゆる選択肢が少ない」と実感しました。体に不自由なところがあっても、自分自身は変わっていないのに、自分の意思とは関係ないところで選択肢や選ぶ自由が失われていく。社会から、あえて障がい者であることを認識させられる。それが、心のバリアを生み出している。そういう意味での「生きづらさ」を感じました。
誰にとっても「選択肢のある日常」が当たり前になる社会をつくりたい。そのためには、自分のブランドだけでなく、あらゆる業界の企業の意識が変わらなければ、社会は変わらないと思っています。
日本の企業では、「障がい者や高齢者の視点を入れてモノづくりやサービスを提案すると「ユーザーはどれだけいるの?」という対応をされることが多いんです。でも、インクルーシブな視点を取り入れたモノづくりやサービスは、健常者にとっても使いやすく、優しいものです。 マーケットはむしろ広がります。うちのブランドの靴も、お客さまの2割は健常者の方です。
企業も巻き込んで仕事をしていきたいと思って、2019年に株式会社を設立しました。社名の「LUYL」は、嵐の「光」という曲の歌詞からインスピレーションを受け、Lights Up Your Life」の頭文字です。これからも、障がい当事者と社会の橋渡し役として、「インクルーシブな視点」を企業や教育現場に浸透させる講演やワークショップを積極的に行い、誰もがありのままの自分に自信を持って、自分らしく生きられる社会にしたいと思います。
PEOFILE 布施田祥子さん
LUYL Inc.代表。靴の企画開発、販売や、インクルーシブデザインプロダクトの企画、コンサルタント、講演活動などを行なう。2011年に左半身まひの生活になり、2015年に大腸全摘、人工肛門造設手術を受ける。2017年に起業。
取材・文/林優子 画像提供/布施田祥子