山梨放送の各番組でMCを務め、「情報ライブ ミヤネ屋」や「朝だ!生です旅サラダ」にも出演するなど、同局の看板アナウンサーとして活躍した原香緒里さん。現在はフリーに転向し、4歳と2歳の女の子を育てながら仕事を続けています。華やかな経歴の裏にあった、努力と涙の軌跡を伺いました。

「私はミスではなく、ブス法政です」と言った日

── アナウンサーになったきっかけを教えてください。

 

原さん:小さいころからお笑いが好きで、誰かを笑顔にする仕事をと漠然と考えていました。でも自分に自信がないし、アナウンサーは特別な人しかなれないだろうと思っていたので、「なりたい」なんて恥ずかしくて誰にも言えませんでした。

 

通っていた法政大学の自主マスコミ講座で実際に活躍されている方々とお会いしたことをきっかけに、やらないで後悔するよりやって後悔しようと思ってチャレンジしたものの、キー局などは落ちて。他業種への就職も考えていたときに、大学に来てくれていた先輩アナウンサーが在籍している山梨放送だけは最後にと思って受けたら、ご縁をいただきました。

 

原 香緒里
メインMCを務めた山梨放送「ててて!TV」のスタジオで

同僚の中には大学のミスコンでグランプリをとった経歴もある、まさに才色兼備のアナウンサーもいたので、「私はミスではなく、ブス法政です」と自虐ネタで自己紹介をし、お笑い路線で自分の居場所を作ろうとしている時期もありました(笑)。

 

── 退社までの9年間、各番組のメインMCを担当されていました。視聴者の方々に愛されたのは、どのような部分だったと思いますか?

 

原さん:取材先へ行ったときは、まずは天気の話や県民の皆さんが応援しているヴァンフォーレ甲府の話をして打ち解けてから取材を始めることが多かったです。選手名と結果を把握しておくこと、こちらから飛び込んで受け入れてもらうこと、食べる仕事では絶対に残さないことは意識していました。

 

アナウンサーは会社の看板だと思っていたので、常に山梨放送を背負っているという気持ちで、でも自然体で過ごすように心がけていましたね。あとは、謙虚な気持ちと感謝の気持ちを忘れないようにしていました。

 

採用してもらえた理由は親しみやすさだと思っていたので、私なんかがすみませんという気持ちと相手に寄り添う心だけは、自分からなくさないようにしようと意識していました。

 

── 番組の中で、特に印象深かったことはありますか?

 

原さん:入社1年目の7月、当時視聴率が20パーセントを超えていた情報バラエティ番組のMCになったことです。視聴者の方々から愛されてきた大先輩の後任でプレッシャーがすごくて。毎週土曜日の放送に向けて毎週金曜日の夜中まで準備をしていたので、「いっそのこと、明日何か特別なことが起きて番組がお休みになればいいのに」と思ってしまうほど、いっぱいいっぱいになっていました。

 

入社4年目からはニュース番組のキャスターになったのですが、記者が夜寝ずに朝も早くから取材して一生懸命取ってきたニュースなのに私はそこに座っているだけだと思うと眠れなくなって、寝ても夢にまで出てくることもありました。みんなにニコニコしてもらう現場から悲しい事件と事故を扱う現場に変わり、ピリピリとした雰囲気を感じていましたね。

 

── 東京出身の原さんが、山梨に来て良かったと感じた瞬間はどんなときでしたか?

 

原さん:「原ちゃんはもう県民だよね」と言われたときです。山梨県出身のアナウンサーはやっぱり強いです。でも県出身者ではないからこそ、山梨のことが大好きな気持ちを伝えて、愛されたいと願ってきました。

 

「甲府では買い物しづらいだろうから」と気にかけてアウトレットへ連れて行ってくれる食べリポで知り合ったご夫婦や、旬の時期にぶどうや手作りの枯露柿をくれる農家さん、「テレビもプライベートも変わらないね」と言ってくれるたこ焼き屋さん。そのときの取材だけの関係だと思わずに心を開いて飛び込んでいったからこそ自然とかわいがってくれて、一生かけて付き合っていきたい〝山梨のお父さんお母さん〟に出会えたんだと思います。

 

アナウンサーとしてではなく、フリーになった何者でもない私と今でもつながってくれていることがうれしいです。

看板アナから一転、仕事のない「暗黒期」へ

── 退社後の生活について聞かせてください。

 

原さん:仕事が好きだったのですが、当時は夫が千葉に住んでいたので、子どもを持つことなどを考えて退社を決断しました。でも思ったように授かることができず、どんどん焦りが生まれて。夫の帰りが遅いときは夕食を作る必要もなく、何のために辞めたんだろうってゆかりのない場所で孤独を感じることもありました。

 

テレビを見るのもつらくなり、担当していた番組が始まる午後4時20分になると自分だけが取り残されているような感覚になって。「なんで、なんで」と日記に書き留めていました。事務所に入ろうとしたこともあったのですが、「何でもします」と言ったら「そういうことじゃないから。30歳を超えているし」とばっさり言われたりもしました。

 

ありがたいご指摘で、いつもの私だったら「おっしゃる通りだ。自分だけにできることって何だろう」と捉えるはずなのに、当時は精神的にやられていて、ポジティブな思考に至るガッツも心の余裕もありませんでした。

 

山梨にいたらこうじゃなかった、こんなはずじゃなかったと悩みました。でも、誰のせいでもなく自分で決めたことだから当たる場所もなくて。フリー転身後、しばらくは暗黒期でしたね(笑)。

 

原 香緒里
フリー転向後も精力的に現場へ。さくらんぼの取材を行う原さん

── 暗黒期をどのようにして脱したのですか?

 

原さん:山梨放送に入るきっかけをくれた先輩には入社後も大変お世話になり、家族ぐるみで仲良くしていただいていました。兄のような存在であるその先輩に電話をかけて、山梨を離れてさみしい気持ちやつらい気持ちを聞いてもらったこともあります。どうしてほしいとかではなく、ただただ素直に心情を吐露していました。

 

そんな風に自分を閉じ込めすぎずに心を柔軟にしているうちに、「時間があるなら、ちょっとこの仕事やってみる?」、「もしよければやってくれる?」などと古巣から声をかけていただくようになり、手を差し伸べてもらえるようになっていきました。

 

事務所に入っていないので、個人的にもらう電話がすべてなんです。1本の電話が鳴ったときにありがたみを感じたり、以前よりもっと仕事と向き合えるようになったりしたのは暗黒期があったおかげだし、一度離れたからこそアナウンサーの仕事が好きだったんだと改めて気づきました。

 

何より、結婚から4年後に出産したことで「すべてはこのためだったのか」と思えるようになって。今までは自分が一番かわいくて仕事について考えていたけれど、自分以上に大切な宝物と出会えて、この子がかっこいいなと思えるお母さんでいることを前提に仕事に臨むようになりました。

「ママ、ぶどうを紹介するお仕事なんだねえ」

── 子育てとの両立はどのようにしていますか?

 

原さん:仕事がある日は、上の子を幼稚園に送って下の子を実家に預けてから特急あずさで甲府駅へ。夕方まで仕事をして急いで東京に帰って、実家で夜ご飯を食べさせてもらってから帰宅して子どもたちを寝かしつけています。収録後のお付き合いは我慢していますが、これはという打ち上げだけは実家や夫に協力してもらって行くようにしています。でも、終電で帰る、前泊・後泊はしない、家族で過ごせるように週末はあまり仕事を入れない、ということは意識していますね。子どもたちには安心して生活できる基盤を提供したいので、預け先となる実家や夫のスケジュールを確認してから仕事を入れるようにしています。

 

── お子さんが現場に同行する機会もありますか?

 

原さん:夏休みは上の子と山梨に行って、ラジオブースで話している様子を見せました。働くのは楽しいということと、ママになっても仕事ができるということを感じてもらえたかなと思います。初めて放送局に入った娘は「かっこよかった。ママのお仕事は、ぶどうを紹介するお仕事なんだねえ」と言っていました(笑)。

 

アナウンサーの仕事は準備9割・本番1割なのに、母になってからは準備する時間が十分には取れないときもあります。葛藤はあるけれど、みんなに助けられながら家族に助けられながら達成感を感じています。

 

── 今後の目標を教えてください。

 

原さん:今は子どもと向き合うのが楽しいので、下の子が小学校に上がるまでは子どもに関する勉強の時間に充てようと考えています。「自分はまだまだ。可能性もまだまだ。世界は広いし人生は1回。やれるところまでやろう」という気持ちで、子育ても仕事も山梨への恩返しも、全力投球でやりきろうと思っています。

 

PROFILE 原 香緒里さん

1985年生まれ。2007年YBS山梨放送に入社し、「YBSワイドニュース」や「ててて!TV」など、報道からバラエティ番組まで幅広く活躍する人気アナウンサーに。2016年に退社し、フリーへ転向。現在はYBSラジオ「キャイ~ンのWANIWANIさせて」のアシスタントなどを担当している。夫と4歳長女、2歳次女の4人暮らし。

 

取材・文/長田莉沙 写真提供/原香緒里