フジテレビアナウンサーとしてキャリアを積んだ阿部知代さん。リポーターとして活躍した20代を経て仕事がなかったという30代。急に仕事が増えたという40代の出来事とは──。(全3回中の2回)
昭和の最後をジャングルで迎えた
── 20代は海外を回る仕事が多かったそうですね。
阿部さん:海外ロケが普通、というのは語弊があるかもしれませんが、バブルの頃に入った新人は初のロケがタヒチなんてこともありました。いい時代でした。「なるほど!ザ・ワールド」のリポーターをしていた頃は、基本的にひとりで海外に行って現地でクルーと合流していましたが、東京に月に3日しかいなかった月もあったほど、世界中を回っていました。
── 「なるほど!ザ・ワールド」では、阿部さんだけ台本がなかったそうですね。
阿部さん:スタッフがロケハンに行って、クイズ番組なので問題と答えを落とし込んだ台本があったようなんですが、私は一度もそれを見たことがないんです。プロデューサーの意向で阿部には見せるなと言われていたそうで。俳優の方とロンドンでご一緒するロケがあって、前日に「阿部さん、セリフを割りましょう」と言われて、そこで初めて台本の存在を知りました。
── なぜ阿部さんだけ台本なしで進められていたんでしょう。
阿部さん:自然な反応を大切にしたかったからだと思います。本当に初めて見るもののリアクションですね。スタッフのセッティングが終わるまで私はロケ車で待っていて、そのあといきなり撮影ポイントに向かいます。「ここをまっすぐ行くと、何か作っている人がいるからそこでリポートして」と言われて話すんです。
── 瞬発力が求められますね。
阿部さん:それでよかったと今も思っています。俳優ではないのでお芝居はできないですし、初めて見るもの、初めて聞くものをそのままのリアクションでリポートしていました。
── プライベートではどんな国に行っていましたか。
阿部さん:入社2年目の夏休みに、大学時代の友人からインドを薦められていたのでひとり旅をしたんです。そこで、現地で仲良くなった子のお家に泊まりに行きました。
── そこで出会った子と、ですか!?
阿部さん:ホテルは事前に取ってあったんですけど、電車で移動中に仲良くなった同世代の女の子の家でご飯をご馳走になって。そのまま泊まったら?とのことだったのでホテルをキャンセルしました。翌日、その子のお兄ちゃんのバイクに乗せてもらって駅まで送ってもらいました。
── ものすごい度胸と行動力ですね。
阿部さん:その子の家で眠るときに一瞬、「私、売られちゃうかも」とは思いましたけど(笑)。帰国してから数週間後に、「なるほど!のリポーターの話が来ている」と言われました。旅行会社の方がプロデューサーに、「2年目の子がひとりでインドに行っていたよ」と伝えていたようで。「インドにひとりで行けるやつなら大丈夫だ」と思われてリポーターになったようです。人生、すべて繋がっていますね。
── 特に記憶に残るロケを教えてください。
阿部さん:アマゾンのジャングルに1週間行ったことがありました。電気もガスも水道も通っておらず、宿泊するところもないサバイバルなロケ。今ではなかなかないでしょうね。セスナをチャーターして、見渡す限り360度緑の森の上を飛んで行くんですが、ぽつんと1か所、更地になっているところに着陸するんです。そこでパイロットから、「じゃ、1週間後ね」と告げられて。
そこから歩いてインディオの住む村でロケをして、夜はみんなでハンモックで寝ていました。ロケが終わって1週間後にセスナのパイロットが迎えに来たのですが、そこで「日本のエンペラーが亡くなったらしい」と聞いて驚きました。昭和天皇崩御の際に、私は何も知らずアマゾンのジャングルにいたんです。
そこから小さな村にセスナで移動して、とりあえず電話が繋がっているコテージからフジテレビのアナウンス室に電話をしました。「阿部です。すみません、何も知らなくて」、「大丈夫、今日から通常編成に戻ったよ」って。
── 連絡がつく手段がなかったんですもんね。
阿部さん:当時は携帯もネットもありませんでした。電話で、「年号はどうなったんですか」と聞いて、そこで平成になったことを知りました。初めて聞く年号なので「漢字でどう書くんですか」と聞いて、コテージにあったわら半紙にボールペンで書いたんです。私にとっての平成は小渕さんが記者会見で掲げたあのシーンではなく、アマゾンでわら半紙に自分で書いた平成です。そのビジュアルが今も残っています。
仕事がなかった30代と転機の40代
── その後はどんな仕事をされたのですか。
阿部さん:2年半、「なるほど!ザ・ワールド」のリポーターをして20代の終わりでパリ支局に1年間行きました。帰ってきてからの30代は、本当に仕事がなくてずっとアナウンス室にいました。
── その間、どう過ごされていたんですか。
阿部さん:ちょうど私に仕事がなかった頃に、近藤サトさんがアナウンス室で朗読の勉強会を始めたんです。興味があって都合がつく方は出てくださいって。私、暇だからほぼフル参加(笑)。
その勉強会が楽しくて楽しくて、朗読にハマりました。ここからフジテレビのアナウンサーが朗読の舞台をスタートさせて今日に至るのですが、そこでたくさんのことを学びましたし、ナレーションの仕事も増えました。でも、30代後半の仕事はナレーションと週末のニュースだけでした。40代になって急に表に出る仕事が増えたんです。
── 何かきっかけがあったのでしょうか。
阿部さん:いろいろな方から「あれがきっかけだよ」と言われるのは、後輩の結婚披露宴で着た胸元が開いたセクシーなドレスの写真が週刊誌に出たことです。そこから急にバラエティの仕事が増えました。当時は、40代独身で後輩をビシビシ叱る姉御キャラのアナウンサーがいなかったんだと思います。同世代のアナウンサーは結婚してお子さんがいる方が多かったですし、そこから急にお仕事が増えて面白いなと思いましたね。
── バラエティの仕事が増えたとのことですが、それまでと仕事内容がガラリと変わって戸惑いはありませんでしたか。
阿部さん:私は実はすごく根暗で、バラエティではいつも「もっと面白くできたんじゃないか」とか、「なんでもっと上手く返せなかったんだろう」と考えて帰りはいつもうなだれていました。私、やっぱりバラエティ向いてないわって。きちんと原稿を読み込んでニュースを伝えるとか、朗読の方が自分には合っていると思っていました。でも、仕事がない時代が長かったので、いただいた仕事は全部受けています。スケジュールがバッティングしない限り、仕事を断ったことはありません。
── 阿部さんといえば、衣装を楽しみにしている方も多いと思います。
阿部さん:バラエティ番組ではスタイリストさんが選んでくれるのですが、今でも私といえばドレッシーなものを、と思ってくださるみたいで。先日もさんまさんから「鎖骨が出ているのがいい」と言われたので、「わかりました」と(笑)。ファッションも大好きなので、あまりいやらしくなく、期待に応えたいという思いで素敵な衣装をありがたく着ています。
PROFILE 阿部知代さん
群馬県生まれ。上智大学卒業後にフジテレビジョンにアナウンサーとして入社、ニュースからバラエティまで幅広く担当する。パリに1年、NYに3年駐在し、NYでは全米最大規模の日米交流団体ジャパン・ソサエティで朗読講座を立ち上げ、帰国まで講師を務める。現在は報道局勤務。古典芸能からオペラ、バレエ等まで年間150本を鑑賞する舞台愛好家。河東節浄瑠璃名取。
取材・文/内橋明日香 写真提供/阿部知代